以下論理も構成もめちゃくちゃな文章が続きますが今の自分の心情を正直につづりました。ぐちゃぐちゃな内容ですが、要はこの1年間他者からの評価を気にしすぎたせいで自分の強みを逆に相殺して疲れ果てた私の愚痴です。
正直ここ一年ほどずっとモヤモヤしてきた気がします。そして、ついに心のもやが取れそうな気がします。僕は純ジャパを引退します。特にミネルバに合格してから、”純ジャパ”とは一体何なのか自分でも困惑していました。純ジャパは差別用語だの何だのという見解もありますが僕がもやもやしていたのはそういう点なく、純ジャパが余りにも曖昧に乱用されている点にありました。海外進学における戦略の一つに、自分がマイノリティーであることをアピールするというものがあります(それが効果的かどうかは別)。自分自身も京都の海外進学実績のない高校から塾なしで進学するという背景があったのでそこはある程度前提として理解してもらえるように戦略立てていました。そのように海外進学を目指していくうちに、僕は余りにも多くの「純ジャパ」、「地方公立高校生」がいることに気づき始めました。日本で育ったがインターナショナルな環境にいる日本人。海外進学が一般的な高校にいる日本人。地方公立でも帰国子女が多い学校にいる日本人などなど。特に印象に残っているのはご縁のなかった某ユニクロ系財団の奨学金面接の待合室で関西の帰国子女を多く要する公立高校の生徒が、自己紹介で公立高校出身であることを強調していたシーンです。率直に言いますが、こういう場面を目撃するとかなり腹が立ちます。(これも正誤は置いておいて)海外進学において、僕は純ジャパという表現はある意味不利な環境にいる学生を助けるための便利な言葉だと思っていました。環境によってやるべきこと、できることが違うのは明らかで、自分の置かれた環境でどれくらいの成果を残せたのか、それをはっきりさせるために地方公立校出身であることや海外経験がないことを明示するものだと。高校時代の僕は、その純ジャパという表現の恩恵を受けるべき立場にいると思っていました。色々な理由があり塾には通えない中で中高一貫ではありながらも海外なんて考える人がまずいない高校から海外トップ大を目指す。誰も目撃したことのないチャレンジであって、それはしっかりと背景を理解した上で評価されるべきだと信じていました。だからこそ、安易に自分のことを純ジャパと表現する人には腹が立ちました。「いや君普通にインターナショナルな環境で育ってるやん。」、「親裕福やし進学のサポートめっちゃ受けられてるやん。」そういうことを自覚しながらも、受験戦略のために恵まれた環境にいる人たちが純ジャパという言葉を乱用することは、当時、本来自分の持つべき強みを持たざるべき人々にめちゃくちゃにされているような気分がしていたのです。そもそも純ジャパを自称している君たちは本来違うフィールドで戦うべきだよね?と。そうこうしているうちに、ミネルバ大学に合格しました。自分もブログや何かの自己紹介の際に純ジャパを連想させるような表現を多用するようになっていました。自分は純ジャパであるとそういう風に最初は思い込んでいた、もしくは無理やり純ジャパであるという自分を作り上げていたのかはわかりませんが、次第に自分は本当に純ジャパなのかと疑うようになり始めました。確かに、日本から海外に進学した中ではレアなバックグラウンドかもしれませんが、そもそもどの海外大生も厳密には純ジャパではありません。いくら地方にいようと海外経験がなかろうと、どこかで海外に目を向けるきっかけがあったから海外進学を目指せた訳で、その過程で英語を学び、国際経験も積み、海外とは縁もゆかりもなかった人ではなくなっていきます。自分自身も確かにスタートポイントは海外進学とは縁のゆかりのないポイントにいたかもしれません。それでも海外進学を志したのは海外という選択肢が見えるだけには世界を広げてもらえていたからです。誰も英語は喋れませんが家族がハワイ好きだったので某旅行代理店のプランを通してたくさんハワイに旅行には連れて行ってもらいました。サッカーをやっていたので海外サッカーやワールドカップは自然と目に入りました。そして学校の海外研修でハーバードを訪れたという大きなきっかけがありました。英語はほぼ独学で勉強しました。しかし小学校6年生から中学3年生の間までECCのホームティーチングに通っていたのも事実です。ホームティーチング自体が自身の英語力の大部分ではないのでほとんど述べていませんが、そこでもらった教材の音声を聞きまくって真似しまくった結果学習初期に英語の感覚が養われたのは大きいです。文法や単語がそこで身についたわけではありませんし、中学時代に準一級まで取得した英検も全て独学でした。中学のカリキュラムの深度が早かったので受験英語という意味でもホームティーチングの存在感は中学入学以降完全皆無になりましたが、それでも英語学習のスタートダッシュを切れる環境が自分には存在したことはれっきとした事実です。
何が言いたいかというと、少なくとも現在海外進学をしている学生に世間が思っている純ジャパなど100%存在し得ず、自分が得をするためや誰かのロールモデルとなるために純ジャパを語り続けることにはもう疲れました。この一年ほど、奨学金等の自分の利益がらみの機会や、SNS等を通したミネルバ大学・海外進学に関する情報発信において、上記のようなもやもやをどこかに抱えながら自分のため、もしくは誰かのために、どこにも存在しない「普通の高校生だった人」を演じていた気がします。そしてそれは基本的に自分のプラスにならなかったように感じています。前者の自分の利益がらみの機会について自分が純ジャパであることを強調することは自分の良さを完全に消していました。僕の強みは、純ジャパでミネルバに進学したという事実ではなく、単純に他人に流されずに自分の思うまま突き進めた自信であり、無鉄砲さだと思います。過去に自分が成し遂げた事実の強調のために「普通の高校生」の着ぐるみを着るのはその成果の裏にあった本当の自分の良さを打ち消してしまっていました。後者のSNS等を通した情報発信について、確かに自分の「普通の高校生だった人」としてのプロモーション方法はリーチ数という点では効果的だったかもしれません。情報発信を通して様々な学生に新しい世界を知ってもらうことができました。インスパイアされた。ミネルバに行きたくなったと行ってくださる方々もたくさんいました。それはとても嬉しいことです。しかし、良くも悪くも、自分という存在はある種間違った見方で捉えられてしまい、自分が本当に伝えたかったメッセージや自分像があまり伝わっていなかった気もします。僕が純ジャパであろうとなかろうと、地方の高校生であろうとなかろうと、僕は普通の学生ではありませんでした。そもそも誰かが思い描いている普通の学生など実際にはどこにも存在しない訳ですが、自分が純ジャパで地方の高校生だったとするなら、なおさら僕は普通の高校生ではありません。誰かの思い描いている普通の高校生が地方の純ジャパ高校生であればミネルバになんて進学しないからです。僕は普通の高校生だった人ではなく、外れ値だったからこそ今の自分がいます。というより普通って何なんだという話ですよね。そもそも皆違う経験や視点を持ってるのでそもそも誰かの描く普通の高校生なんてどこにも存在してません。将来のことや自分の成長を考えるにあたって、もし自分の過去の功績やミネルバ大学生であるという事実を取り除いた時、社会の誰が僕を評価するのだろうかと思うことがたまにあります。他者が評価しているのは果たして自分なのか、自分が着飾っている何かなのか。自分は着飾っているものが増えているだけで自分として成長できているか。更なる高みを目指すにあたって、自分自身を自分で存在しない誰かにカテゴライズし、その制約に振り回されることは邪魔でしかないと思うようになりました。それはミネルバ大学生としての自分の自己紹介で自分はで京都の公立校出身で海外経験がなかったことを聞かれてもいないのに何かに追われるように説明するような行為のことを指します。多分僕を本当に気にかけてくれている人は僕が純ジャパであることを求めていない。それ以前に自分が本当に気にしているのは他人の評価ではなくまず第一に自分が何をしたくてそれを通してどのようなインパクトを自分の気にかける人たちに与えたいかだと思います。これから様々な経験をし、それを発信していく中で、誰かを演じるのではなく本当の自分を発信することが、自分の価値を最大化し、自分を本当に必要としてくださっている方々への貢献、恩返しになると思っています。純ジャパでもなく、ミネルバ大学でもなく、まだ自分が何も手に入れていなかった頃の貪欲さ、無鉄砲さに原点回帰し、梅澤 凌我という人間として自分の行きたい道を切り開いていこうと思います。
正直これを宣言してしまうことを恐れている自分もいます。そんなことをいっても何かを達成するために自分の持っている肩書きは使うことになるのではないかという不安もありますし、今まで自分からも押し出してきた肩書がなくなったときに自分の活動範囲がどう変わるのかも不透明です。ただし、少なくとも1人の人間として、表現者としては自分に着ぐるみを着せることなく本来の自分のままで突き進んでいくことが、自分にとってベストになると信じています。そして、皆さんもこれから、面接やその他のシチュエーションで純ジャパアピールをしてくる人がいたら、その人のバックグラウンドを詳細に調べて欲しいです。面接で純ジャパを語る人におそらくみなさんが想像するような純ジャパはほとんど存在しません。誰がどのような環境にいて何を成し遂げてきたのか、それを精査するためにもこのようなアピールが乱用されることは好ましくないと思います。殴り書きになっていますが、自分が吐き出したいことは。
1. 僕は誰かの想像する普通の高校生ではなく、明らかに外れ値であったし、これからも外れ値でありたい。
2. 普通の高校生ではなく外れ値の目線から発信をしていくのが自分のできること
3. 自分の利益のために恵まれていない環境で育ったと偽る人間と同じことをしたくないのでいくら自分が彼らより純ジャパに近いとしても自分からそのようなアピールはしない
4. ロールモデルのために、社会に同調するために世間体を気にするのはもう疲れた。というより、そこに自分の魅力はないし、成長もしない。
5. 本来の梅澤 凌我であるからこそ魅力があるし、そもそも別に誰かのロールモデルになりたいわけでもない。僕の進んだ道や生き方を見て、参考にしてくれる人がいればそうしてくれればいい。〜の梅澤 凌我ではなく。梅澤 凌我として評価してもらえるような人間に成長していきたい。
ロールモデルを辞めるというのは、別にミネルバ進学や海外進学などに関心がある人をサポートするのを辞めるというわけではありません。ただ、そのサポートを「普通の高校生だった人」を偽って行うのは誰のためにもならないです。なぜなら僕は外れ値であって、別に海外進学に効果的な対策をした訳でもありません。外れ値であった自分、そしてこれからも外れ値であり続けたい自分が突き進み、その有様を発信していくことが自分のできる最高の恩返しだと思っています。今から何か特段と変わる訳ではありませんが、これからもどんどん進化していく梅澤 凌我にご期待いただければと思います。
この1年間、社会からの評価を気にするあまり本来の自分にベールを被せていた気がします。ただし、そのベールが本来の自分の強みも相殺してしまっていたんじゃないかと感じています。もちろん違ったオーディエンスに適用することも重要かもしれませんが、僕の強みを最大化させるための前提条件は素の自分でいることです。そして、自分らしく突き進み続けることが自分の成長につながると同時に自分が与えられる影響を最大化できると思っています。人からもっと丸くなったほうがいいんじゃないか、わざとではないと思うけど鼻につくとアドバイスを受けることもありますが、その弱点の克服よりも自分らしさを優先することが自分の強みを最大化すると思います。純ジャパというのは自分が過剰に気にしていたベールのひとつです。ただし、そのベールに固執することはむしろ自分の強みも個性も経験も台無しにしてしまっていました。というか、純ジャパであれ地方の高校生であれ塾なしであれなんであれ、自分を自分から何かの着ぐるみに着せるのにはもう疲れました。気分も良くないし、本来の自分を体現できていないようなそんなやるせなさが心のどこかにありました。一度自分に着せていたベールを全て脱ぎ捨てて、本来の無鉄砲な自分でリスタートしていきたいと思います。