Author name: crafterzawazawa

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純ジャパなんてクソ食らえ

以下論理も構成もめちゃくちゃな文章が続きますが今の自分の心情を正直につづりました。ぐちゃぐちゃな内容ですが、要はこの1年間他者からの評価を気にしすぎたせいで自分の強みを逆に相殺して疲れ果てた私の愚痴です。 正直ここ一年ほどずっとモヤモヤしてきた気がします。そして、ついに心のもやが取れそうな気がします。僕は純ジャパを引退します。特にミネルバに合格してから、”純ジャパ”とは一体何なのか自分でも困惑していました。純ジャパは差別用語だの何だのという見解もありますが僕がもやもやしていたのはそういう点なく、純ジャパが余りにも曖昧に乱用されている点にありました。海外進学における戦略の一つに、自分がマイノリティーであることをアピールするというものがあります(それが効果的かどうかは別)。自分自身も京都の海外進学実績のない高校から塾なしで進学するという背景があったのでそこはある程度前提として理解してもらえるように戦略立てていました。そのように海外進学を目指していくうちに、僕は余りにも多くの「純ジャパ」、「地方公立高校生」がいることに気づき始めました。日本で育ったがインターナショナルな環境にいる日本人。海外進学が一般的な高校にいる日本人。地方公立でも帰国子女が多い学校にいる日本人などなど。特に印象に残っているのはご縁のなかった某ユニクロ系財団の奨学金面接の待合室で関西の帰国子女を多く要する公立高校の生徒が、自己紹介で公立高校出身であることを強調していたシーンです。率直に言いますが、こういう場面を目撃するとかなり腹が立ちます。(これも正誤は置いておいて)海外進学において、僕は純ジャパという表現はある意味不利な環境にいる学生を助けるための便利な言葉だと思っていました。環境によってやるべきこと、できることが違うのは明らかで、自分の置かれた環境でどれくらいの成果を残せたのか、それをはっきりさせるために地方公立校出身であることや海外経験がないことを明示するものだと。高校時代の僕は、その純ジャパという表現の恩恵を受けるべき立場にいると思っていました。色々な理由があり塾には通えない中で中高一貫ではありながらも海外なんて考える人がまずいない高校から海外トップ大を目指す。誰も目撃したことのないチャレンジであって、それはしっかりと背景を理解した上で評価されるべきだと信じていました。だからこそ、安易に自分のことを純ジャパと表現する人には腹が立ちました。「いや君普通にインターナショナルな環境で育ってるやん。」、「親裕福やし進学のサポートめっちゃ受けられてるやん。」そういうことを自覚しながらも、受験戦略のために恵まれた環境にいる人たちが純ジャパという言葉を乱用することは、当時、本来自分の持つべき強みを持たざるべき人々にめちゃくちゃにされているような気分がしていたのです。そもそも純ジャパを自称している君たちは本来違うフィールドで戦うべきだよね?と。そうこうしているうちに、ミネルバ大学に合格しました。自分もブログや何かの自己紹介の際に純ジャパを連想させるような表現を多用するようになっていました。自分は純ジャパであるとそういう風に最初は思い込んでいた、もしくは無理やり純ジャパであるという自分を作り上げていたのかはわかりませんが、次第に自分は本当に純ジャパなのかと疑うようになり始めました。確かに、日本から海外に進学した中ではレアなバックグラウンドかもしれませんが、そもそもどの海外大生も厳密には純ジャパではありません。いくら地方にいようと海外経験がなかろうと、どこかで海外に目を向けるきっかけがあったから海外進学を目指せた訳で、その過程で英語を学び、国際経験も積み、海外とは縁もゆかりもなかった人ではなくなっていきます。自分自身も確かにスタートポイントは海外進学とは縁のゆかりのないポイントにいたかもしれません。それでも海外進学を志したのは海外という選択肢が見えるだけには世界を広げてもらえていたからです。誰も英語は喋れませんが家族がハワイ好きだったので某旅行代理店のプランを通してたくさんハワイに旅行には連れて行ってもらいました。サッカーをやっていたので海外サッカーやワールドカップは自然と目に入りました。そして学校の海外研修でハーバードを訪れたという大きなきっかけがありました。英語はほぼ独学で勉強しました。しかし小学校6年生から中学3年生の間までECCのホームティーチングに通っていたのも事実です。ホームティーチング自体が自身の英語力の大部分ではないのでほとんど述べていませんが、そこでもらった教材の音声を聞きまくって真似しまくった結果学習初期に英語の感覚が養われたのは大きいです。文法や単語がそこで身についたわけではありませんし、中学時代に準一級まで取得した英検も全て独学でした。中学のカリキュラムの深度が早かったので受験英語という意味でもホームティーチングの存在感は中学入学以降完全皆無になりましたが、それでも英語学習のスタートダッシュを切れる環境が自分には存在したことはれっきとした事実です。 何が言いたいかというと、少なくとも現在海外進学をしている学生に世間が思っている純ジャパなど100%存在し得ず、自分が得をするためや誰かのロールモデルとなるために純ジャパを語り続けることにはもう疲れました。この一年ほど、奨学金等の自分の利益がらみの機会や、SNS等を通したミネルバ大学・海外進学に関する情報発信において、上記のようなもやもやをどこかに抱えながら自分のため、もしくは誰かのために、どこにも存在しない「普通の高校生だった人」を演じていた気がします。そしてそれは基本的に自分のプラスにならなかったように感じています。前者の自分の利益がらみの機会について自分が純ジャパであることを強調することは自分の良さを完全に消していました。僕の強みは、純ジャパでミネルバに進学したという事実ではなく、単純に他人に流されずに自分の思うまま突き進めた自信であり、無鉄砲さだと思います。過去に自分が成し遂げた事実の強調のために「普通の高校生」の着ぐるみを着るのはその成果の裏にあった本当の自分の良さを打ち消してしまっていました。後者のSNS等を通した情報発信について、確かに自分の「普通の高校生だった人」としてのプロモーション方法はリーチ数という点では効果的だったかもしれません。情報発信を通して様々な学生に新しい世界を知ってもらうことができました。インスパイアされた。ミネルバに行きたくなったと行ってくださる方々もたくさんいました。それはとても嬉しいことです。しかし、良くも悪くも、自分という存在はある種間違った見方で捉えられてしまい、自分が本当に伝えたかったメッセージや自分像があまり伝わっていなかった気もします。僕が純ジャパであろうとなかろうと、地方の高校生であろうとなかろうと、僕は普通の学生ではありませんでした。そもそも誰かが思い描いている普通の学生など実際にはどこにも存在しない訳ですが、自分が純ジャパで地方の高校生だったとするなら、なおさら僕は普通の高校生ではありません。誰かの思い描いている普通の高校生が地方の純ジャパ高校生であればミネルバになんて進学しないからです。僕は普通の高校生だった人ではなく、外れ値だったからこそ今の自分がいます。というより普通って何なんだという話ですよね。そもそも皆違う経験や視点を持ってるのでそもそも誰かの描く普通の高校生なんてどこにも存在してません。将来のことや自分の成長を考えるにあたって、もし自分の過去の功績やミネルバ大学生であるという事実を取り除いた時、社会の誰が僕を評価するのだろうかと思うことがたまにあります。他者が評価しているのは果たして自分なのか、自分が着飾っている何かなのか。自分は着飾っているものが増えているだけで自分として成長できているか。更なる高みを目指すにあたって、自分自身を自分で存在しない誰かにカテゴライズし、その制約に振り回されることは邪魔でしかないと思うようになりました。それはミネルバ大学生としての自分の自己紹介で自分はで京都の公立校出身で海外経験がなかったことを聞かれてもいないのに何かに追われるように説明するような行為のことを指します。多分僕を本当に気にかけてくれている人は僕が純ジャパであることを求めていない。それ以前に自分が本当に気にしているのは他人の評価ではなくまず第一に自分が何をしたくてそれを通してどのようなインパクトを自分の気にかける人たちに与えたいかだと思います。これから様々な経験をし、それを発信していく中で、誰かを演じるのではなく本当の自分を発信することが、自分の価値を最大化し、自分を本当に必要としてくださっている方々への貢献、恩返しになると思っています。純ジャパでもなく、ミネルバ大学でもなく、まだ自分が何も手に入れていなかった頃の貪欲さ、無鉄砲さに原点回帰し、梅澤 凌我という人間として自分の行きたい道を切り開いていこうと思います。 正直これを宣言してしまうことを恐れている自分もいます。そんなことをいっても何かを達成するために自分の持っている肩書きは使うことになるのではないかという不安もありますし、今まで自分からも押し出してきた肩書がなくなったときに自分の活動範囲がどう変わるのかも不透明です。ただし、少なくとも1人の人間として、表現者としては自分に着ぐるみを着せることなく本来の自分のままで突き進んでいくことが、自分にとってベストになると信じています。そして、皆さんもこれから、面接やその他のシチュエーションで純ジャパアピールをしてくる人がいたら、その人のバックグラウンドを詳細に調べて欲しいです。面接で純ジャパを語る人におそらくみなさんが想像するような純ジャパはほとんど存在しません。誰がどのような環境にいて何を成し遂げてきたのか、それを精査するためにもこのようなアピールが乱用されることは好ましくないと思います。殴り書きになっていますが、自分が吐き出したいことは。 1. 僕は誰かの想像する普通の高校生ではなく、明らかに外れ値であったし、これからも外れ値でありたい。 2. 普通の高校生ではなく外れ値の目線から発信をしていくのが自分のできること 3. 自分の利益のために恵まれていない環境で育ったと偽る人間と同じことをしたくないのでいくら自分が彼らより純ジャパに近いとしても自分からそのようなアピールはしない 4. ロールモデルのために、社会に同調するために世間体を気にするのはもう疲れた。というより、そこに自分の魅力はないし、成長もしない。 5. 本来の梅澤 凌我であるからこそ魅力があるし、そもそも別に誰かのロールモデルになりたいわけでもない。僕の進んだ道や生き方を見て、参考にしてくれる人がいればそうしてくれればいい。〜の梅澤 凌我ではなく。梅澤 凌我として評価してもらえるような人間に成長していきたい。 ロールモデルを辞めるというのは、別にミネルバ進学や海外進学などに関心がある人をサポートするのを辞めるというわけではありません。ただ、そのサポートを「普通の高校生だった人」を偽って行うのは誰のためにもならないです。なぜなら僕は外れ値であって、別に海外進学に効果的な対策をした訳でもありません。外れ値であった自分、そしてこれからも外れ値であり続けたい自分が突き進み、その有様を発信していくことが自分のできる最高の恩返しだと思っています。今から何か特段と変わる訳ではありませんが、これからもどんどん進化していく梅澤 凌我にご期待いただければと思います。 この1年間、社会からの評価を気にするあまり本来の自分にベールを被せていた気がします。ただし、そのベールが本来の自分の強みも相殺してしまっていたんじゃないかと感じています。もちろん違ったオーディエンスに適用することも重要かもしれませんが、僕の強みを最大化させるための前提条件は素の自分でいることです。そして、自分らしく突き進み続けることが自分の成長につながると同時に自分が与えられる影響を最大化できると思っています。人からもっと丸くなったほうがいいんじゃないか、わざとではないと思うけど鼻につくとアドバイスを受けることもありますが、その弱点の克服よりも自分らしさを優先することが自分の強みを最大化すると思います。純ジャパというのは自分が過剰に気にしていたベールのひとつです。ただし、そのベールに固執することはむしろ自分の強みも個性も経験も台無しにしてしまっていました。というか、純ジャパであれ地方の高校生であれ塾なしであれなんであれ、自分を自分から何かの着ぐるみに着せるのにはもう疲れました。気分も良くないし、本来の自分を体現できていないようなそんなやるせなさが心のどこかにありました。一度自分に着せていたベールを全て脱ぎ捨てて、本来の無鉄砲な自分でリスタートしていきたいと思います。

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僕が日本の公立高校から初めて世界最先端ミネルバ大学に進学した理由

前回までのあらすじ 高校3年生に入り、受験はついに正念場を迎えた。ビジネスコンテスト世界大会での入賞や最後のチャンスでやっとスコアを確保できたSATが終わると、塾なしでのエッセイ執筆という前代未聞の作業に取り組んだ。一月終盤にはほとんどの大学の受験を終え、3年間にわたる米国大学受験が幕を閉じようとしていた。 ハーバード行って何がしたいの? さかのぼること高校三年初期…. 当時、受験したいアメリカの大学についてリサーチを深めていっていた自分は、ある違和感を覚え始めていました。 ハーバードを初めとするIVYリーグや、スタンフォード等のトップ大学で実際にどのような勉強ができるのかを調べていった結果、自分が魅力的に感じる授業や専攻をほとんど見つけることができなかったのです。 当時の自分は、機会の不平等・教育・EdTech・起業のようなキーワードに惹かれていましたが、実際自分の興味をダイレクトに扱ってくれるような大学はほぼ見つからず、大学のアカデミックと言う点において魅力を感じる大学は少なく感じていました。特にハーバードに関しては、学部分野での専攻に実学の要素があまりなかったため、大学院課程や大学のリソース、コミュニティには大変惹かれたものの、 「あれ、俺って結局ハーバード行って何がしたいの?」 と思い始めるようになりました。 自分が大学で学ぶイメージがあまり持てなかったため、一度大学でどのような内容を学びたいかではなく、大学を卒業したときにどのような人間になっていたいかという視点から考えてみることにしました。 そこで浮かび上がってきたのが、「実践する力を持った人間」になりたい。ということでした。 同時期にSocial Innovation Relayという高校生のソーシャルビジネスプランコンテストに日本代表として出場していましたが、私とチームメイトは、そこでAmaFessionalというオンライン学習プラットフォームを提案しました。簡単に言えば教育版Youtubeのようなもので、ユーザーの興味や能力に合わせて、ユーザーが学び「たい」ものと学ぶ「べき」ものをAIがカリキュラムとして提供するという無料サービスでした。 世界大会の課題動画。ナレッジ共有と最適化を組み合わせた教育サービスを提案した。誰もが好きなものに出会い、自由に生きられる世界の実現を目指して機会の不平等に包括的に取り組めないかなと、中学の頃から少しずつ温めてきたアイデアでした。全国大会で優勝し、世界大会でも3位に入賞するなど、それなりの評価をもらった一方で、自分はあまり満足していませんでした。というのも、いくらビジネスコンテストと言えど、あくまでアイデア止まりで、世界を変えるためのアイデアを自分が社会で実行できるかとなると、そこには大きなギャップがあるというように感じていました。将来AmaFessionalのようなアイデアを実現するにしても、どのような分野に進むとしても、自分がワクワクできたり、「世界変えられるんじゃね?」と思ったりできた時に、それを社会で実現できるような人間になっていたい。次の大学4年間は、その実践力を付けることに使いたいと考えるようになっていったのです。 椅子に座るだけの4年間か、自ら動く4年間か 実践力をつけたいということが明確になり、ますます大学へ通うことの違和感が増大し始めました。ハーバードを含めたアメリカの大学にしても、全く興味のなかった日本の大学にしても、4年間毎日同じ校舎に通い、講堂に座って教授の話を聞いているだけで実践力なんてつくわけがないじゃないか。そんな疑念を抱きました。また、教授の話を聞いているだけで自分は本当に学べるのか、そもそも楽しいのかも謎に包まれていました。中高を振り返って、自分が何か先生から話を聞いただけで学べていただろうかと考えた時に、僕はあまり印象に残っていることがありませんでした。特に高校に入ってからは、サッカーの朝練の後に日本の大学受験を意識した内容を先生から聞くのがあまり好きではなく、授業だけで何かを学べたということがより少なくなっていきました。試験勉強でよく言われていることの1つに、「授業で全て覚えて帰って、家では復習だけしなさい」ということがありますが、僕は人の話をただ聞いているだけで何かを学ぶのが苦手なタイプでした。自分が何かを学べている時は、講義型の授業であっても、自分から何かを考えている時や自分から手を動かしている時が多いなと気づきました。 ミネルバ大学との出会い そんなことを考えていた時期に出会ったのがミネルバ大学(Minerva Schools at KGI)です。 ミネルバ大学を初めて知ったのは、高校2年の後期にハーバードに関する記事をネットサーフィンして探していた時でした。 This college startup has a 1.9% acceptance rate, making it tougher to get into than HarvardCollege startup Minerva Schools received 16,000 applicationswww.businessinsider.com アメリカで一番入るのが難しい大学はハーバードではないというビジネスインサイダーの記事を見て、ミネルバ大学という名前を初めて目にしました。その時はまだ名前くらいしかわかっておらず実際どのような大学なのかはあまりわかっていませんでしたが、同時期にたまたまFacebookの友達が入っていたミネルバ大学の日本向け広報コミュニティを見つけ、そこからどんどん情報が入ってくるようになりました。はたまた同時期に、日本人初のミネルバ大学生が誕生し、彼らの出演するメディアでミネルバ大学の中身に触れていくうちに、そのカリキュラムにどんどん惹かれていきました。最終的に公式のWebサイトに至り着き、書かれているビジョンやカリキュラム等、全てが自分の求めていたものと合致していることに気づきました。 ミネルバ大学に関する日本語での詳しい説明は http://harunakatayama.com/blog/ やhttps://hyamamoto.com/%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%A6%82%E8%A6%81/等を参考にしてください(一部古い情報も含まれますので極力公式サイトを参考にしてください)。 実践的な授業 ミネルバ大学では、オンラインで問題を効果的に解決するための思考法を学び、課外授業では各都市の組織と協同しながら実社会で通用する力を養成していきます。全てが実践のために構築されているミネルバのカリキュラムは、実践力のために次の4年間を費やしたいと考えていた自分にとって唯一無二のものでした。 世界を変えたければ、まず世界を知らなければならない 高校三年生の時に出場したビジネスコンテストでは、世界の機会格差を包括的に解決すべく、ルワンダをスタートアップ とした教育サービスを提案しました。当時の自分はとにかく世界の問題を包括的に解決することに価値を感じていた一方で、世界の問題を解決するには自分はあまりにも日本以外のことを知らなさすぎるということに気づきました。大学を卒業してからでも、色々なところを旅しないといけないなあ。そんな風に考えていたところ、ミネルバは旅しながら大学4年間を過ごせるという一石二鳥の大学でした。椅子に座るだけの4年間ではなく、自ら動く4年間にしたい。そんな自分にも完全に当てはまる内容でした。 求めていた真のリベラルアーツ(学際) アメリカの大学に惹かれていた大きな理由の一つとして、リベラルアーツ教育が挙げられます。入学時に学部を決めることなく広く学べるスタイルが、学際的に世界の課題にアプローチしたかった自分にとって魅力的でした。一方で、分野をまたいで勉強できるとしても、それが本当に自分のやりたい学際なのか、リベラルアーツなのかということに疑問を感じていました。例えば、コロンビア大学やシカゴ大学に代表されるCore Curriculumという必修では、文学や芸術など、いわゆる教養と言われるものの学習を通して、学生の能力を養っています。Core Curriculumが内容や知識にフォーカスしているというわけではありませんが、私はCore Curriculumのようなリベラルアーツが本当に私が今やるべき学問ではない様に感じていました。文化や芸術はキャンパスで学ぶのではなく実際にその場で経験すればいいと思っていたのです。それよりもリベラルアーツで養うべきものは、思考法なのではないかと考えていました。思考法を軸とし、常に実践を重んじるリベラルアーツを展開するミネルバは、その点で私の理想に合致していました。 また、そもそも分野をまたいで勉強したとしても、どのように分野をまたいで勉強するのかについて引っかかっていました。一般的な大学でも専攻外の科目を取る自由はあるものの、その授業が何を学べ、何のために存在するものなのかがよくわかりませんでした。ミネルバでは一つの授業でもかなり分野横断的で、その授業を受けることで何をできるようになるかが明確だったため、実践を重じていた自分にとって非常に魅力的でした。 多様性 アメリカの大学では世界中から集まった多種多様でパッションを持った人と関わることができる。そのような期待があってアメリカの大学に憧れていました。しかしミネルバ大学を知って衝撃を受けたのが、ミネルバと比べると他のアメリカの大学も~多様ではないということです。日本よりは多様性を重視してはいるものの、アメリカの大学でも留学生率は高くても20%程度です。そしてトップ大学の多くでは、エリート階級や上流階級の生徒が大半を占めているという現実があります。ミネルバはアメリカの大学にもかかわらず留学生率が8割を超える大学で、所得階級も多層に渡ります。多様性を求めるのであればミネルバに勝てる大学がないのは一目瞭然でした。 自分にとってハーバードが憧れの大学であったのは言うまでもありません。しかし、本当に自分がやりたいことは何なのか、それを突き詰めて行った時に、ハーバードが自分のための場所だとはどんどん思えなくなりました。それと同時に、ミネルバ大学が自分が求めるニーズを全て満たしてくれる、自分にとっての理想の大学、Dream Schoolであることを確信していきました。 自分が当時求めていたことが全てここにはある。そのような感覚があり、ミネルバ大学が第一志望へと変わりました。 専願か併願か ミネルバ大学が第一志望になったのが高校三年の春頃で、その時から、自分はハーバードに受かってもミネルバ に進学するという風に考えていました。自分の理想がミネルバにはあるし、ミネルバ を蹴ってハーバードに入るよりもハーバードを蹴ってミネルバに入った方が圧倒的にインパクトが大きいからです。そう考えたときに、ミネルバ大学のBinding Enrollment Optionという日本語で言うと専願の様な仕組みを使うかどうか考えないといけなくなりました。ミネルバ大学では、この仕組みを使うと、合否の結果が4週間以内に帰ってくるが、入学を確約しなければならず、他の出願先の大学の合否を待つことはできない決まりになっていました。ミネルバの専願は合格率は変わらないが結果が早くわかるので専願で受けることに越したことはないのですが、自分は専願を使いたくないと考えていました。 先例なき道を開拓したい 専願をためらった理由は、自分の特殊なバックグラウンドにありました。ハーバード等のアメリカトップ大学に入る日本人は、ほぼ以下のどれかに当てはまります。 – 帰国子女– 高IQ– 海外進学が盛んか進学をサポートしている高校– 海外進学塾に通っている– 親が金持ち 僕は今までこのどれにも当てはまらずにハーバードに合格した日本人を聞いたことがありません。ハーバードに限らなくても、米国のトップ大学に入学している日本人で上記の要件を満たさない人はほぼいないと思います。 しかし自分は、上記の要件を一つも満たさずにハーバードを目指していました。そしてその挑戦は、日本の教育界において非常に重要な意味を持っていると確信していました。 一般家庭の純ジャパでも、海外進学実績のない高校から塾なしでハーバードを目指せる。そして実際にこれくらいの成績を残すことができる。僕自身がそういったデータとなり、先例のない道を切り開くことで、様々な人の無意識の思い込みをなくすことができるのではないかと考えていました。 そしてそのような馬鹿げた挑戦ができる日本人は、今後一生現れないのではないかと本気で思っています。なぜなら、投資がものをいう海外進学において組織からのサポートを受けないと言うのは自殺行為であって、もしサポートを受けられるのであれば受けるに越したことはないからです。自分自身もエッセイ添削において、良い添削を受けれられる人がどれくらい得をするのかを肌身で感じたので、これから受験する人にも塾に行けるのであれば行くことをオススメします。それでも、僕は先例をつくるという使命・どうしても塾に通えない環境に置かれていたため、お金のかかる支援は一つも受けないことになりました。 ミネルバに専願で受験すれば、他のアメリカ25大学へのデータが全て無くなってしまうかもしれない。貴重なデータが失われることを恐れていました。これは後から気づいたことですが、ミネルバを専願で受ければ本当に受かってしまうのじゃないかという根拠のない自信が自分の中にはあったようで、それが逆に専願をためらうブレーキとなっていました。 ミネルバ大学専願へ そんな葛藤がありましたが、最後の最後で、専願での受験を決意しました。一月の米国大学受験終了後、僕は日本の大学を受験する気は全くありませんでしたが、さすがに親も心配になったのか、合格しても行かなくてもいいから日本の大学を受験するように言われました。日本の大学は本当に行く気がなかったので、自分は完全にお金の無駄だと思っていたのですが、お金は私が出したくて出すから受けなさいと言って聞いてくれませんでした。受験料だけなら良いのですが、合格すると行きもしない大学に入学金で20万円も払わせることになります。アメリカの大学の合格発表よりも日本の大学の入学金支払い締め切りの方が早いので、どう頑張っても合格すれば親に数十万円を浪費させることになってしまいます。関西の国立大学と東京の私立大学の二校に出願しましたが、厄介なことに本当に受かってしまいそうな状況にいました。アメリカの大学25校の合否と、親の40万円の浪費を天秤にかけると、前者を取るのは流石に馬鹿すぎるのではないかという考えに至り、日本の大学の入学金支払い締め切りよりも先にアメリカの大学の合格がわかった方がいいのではないかと考えました。また、他大学の合否がわからなくても、ミネルバ大学に日本の一条校から初めて進学するという事実と、今まで進学準備で残してきたデータがあれば、自分の成し遂げたかった「先例なき道を切り開く」ことは十分に可能なのではないかと結論づけました。そして受験締め切りの数時間前に、ミネルバ大学の出願形式を併願から専願に変更し、受験を完了させました。 終焉 それは2月の中旬のとある日のことでした。国内受験のため学校の授業もなくなり、受験の結果待ちであった自分はお昼までぐうたら寝ていました。ちょうどその日、アメリカの某IVYリーグ校の面接のために大阪まで行かなければならなかったので布団に寝転びながらgmailで会場までのアクセスを検索しようとしたところ、ミネルバ大学から受験結果のメールが来ていることに気づきました。特に何も考えずクリックすると、いきなり動画がはじまり、合格おめでとう的なメッセージが表示されました。あまりに衝撃的で、自分が受かるなんて思ってもおらず、思わず叫びながら飛び起きました。 というのは嘘です。 (合格演出は見せませんが、こんな感じでメールが届きました)「あ、合格したわ。」という感情の伴わない思考と共に、夕方から面接にいく必要も無くなったので二度寝しました(一応すぐに親に連絡したことはここでは省略)。自分自身も驚きや嬉しさといった感情で溢れることを期待していたのですが、実際受かってみると全くもって無感情で、むしろ無感情であったことに驚きを感じました。こじづけで分析すると 他大学の結果をデータとして取るために最後まで併願を躊躇っていたように、ミネルバ大学合格に漠然とした自信があった。ミネルバ大学に漠然としたフィット感(ここしかないという感覚)があった?合格云々より、やっと次に進めるという思いが強かった?なんやかんやで通過点でしかなかったなどが挙げられますが正直なぜ合格に対して無感情だったのかは分かりません。 しかし、自分が先例のない道を切り開き日本の教育界の無意識の思い込みを1つなくせたことと、自分がやっと新たなステップに進めるということは確かでした。 次回からは、3年間の受験体験を振り返って考えたこと、ミネルバ合格後から入学までの半年間について触れながら、僕のような非帰国子女がミネルバ大学に入るとどうなるのか、サンフランシスコでの一年目から振り返っていきたいと思います。 ーーーーーーーー この続きは、ブログでは休止中で、現在はYouTubeにて発信を行っています。近いうちにサンフランシスコの一年目のVlogも出す予定ですので、ぜひ興味を持ってくださった方はチャンネル登録をよろしくお願いします。

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地方公立の落ちこぼれが世界最先端ミネルバ大学に独学で合格するまで

前回までのあらすじ 失敗続きの高校二年生時代。ステータスはハーバード合格からは程遠く、苦悩する日々が続く。終盤になって遂にビジネスコンテストで全国優勝、世界大会出場権を獲得するなど、光も見え始めた。 4月-TOEFL 目標点到達 高校一年のうちに100点を越えようと意気込んでいたTOEFLですが、一年の11月に受験した回は77点と撃沈し、そこから三年生に上がるまで結局距離を置くことになりました。海外進学の説明会等に参加する中で、SATやエッセイ等も全く手についていない自分は、さすがに三年生に入るあたりでTOEFL100点を超えていないと間に合わないという焦りがあり、なんとしてもここで終わらせたいと、4月の受験を決意しました。学校のテスト期間からは離れていたこともあり、TOEFLの問題集をコンピューターで何度もこなしながら、TOEFL3800の単語帳をくたくたになるまで読み返す日々が続きました。電車の隙間時間には、TOEFLの勉強法、攻略法などをインターネットで読み漁ったりもしました。本腰を入れて対策をし始めたのが一ヶ月前ではあったのですが、久しぶりに過去問を解いてみると、ReadingやListeningでもある程度の高得点が見られ、「あれ、俺そんなにTOEFLできたっけ」というような所感があったのを覚えています。高校2年生の間は、単語帳を隙間時間に覚えることしかTOEFL iBTのための対策をしていなかったので不思議に思いました。一方で、高校2年時には、英語で授業を受けたり論文を書いたり、ビジネスペーパーを書いたりなど、実際に英語を使って何かをするという機会が多くあり、実践的な英語を学べていたのかもしれません。通学時間の単語暗記の積み重ね、英語を使う機会の増加、そして高校2年の終わりから高校3年の春にかけての徹底した対策の結果、そこまで自身はなかったものの、TOEFL iBT105点(Reading 29 Listening 28 Writing 26 Speaking 22)を取得することができ、次のステップに進む準備が整いました。 5月-サッカー部引退と初めてのSAT TOEFLの目標点に到達した次のステップが、アメリカ版センター試験のSATでした。ざっくりというと、ReadingとMath各800点の合計1600点満点の試験(オプションでエッセイ試験があり、トップの大学では受験が推奨されているので僕も受験しました)で、ハーバード等のトップ大学合格には1500点あると申し分ないと言われています。ハーバードの下位25%の合格点が1480点であることを鑑みると、少なくとも1480点は取りたいという風に考えていました。しかし、5月の学年末考査等も重なり、TOEFL後の残された期間で十分な対策を行うことはできず、結果は1370点(Reading 600点、Math 770点、Essay 8/24点(2-4-2))と撃沈しました。 また、それまで授業外で大きなウェイトを占めていたサッカー部での活動に、一区切りつけることにしました。僕の所属していたサッカー部は、高校サッカー選手権で全国大会を目指すチームであったため、本来は冬まで活動がありますが、一部の部員は、受験に集中するために、5月の京都府総合体育大会を最後に部活動を引退します。小学校の頃から、選手権での舞台を夢見ていた自分にとって、途中で引退するというのは苦渋の決断でした。というのも、僕が引退することにした大きな理由は、受験で忙しくなるからではなく、自分の実力では部に残ったところで他の部員の足手まといになるという現実からでした。ハーバードに行くという点でも、自分が目標としてきたステージに立つという点でも、実力不足からの引退というのは、正直辛いものがありました。しかし、中学時代から日に日に感じるようになった実力差というものは、完全に自分の責任であり、現実を受け止めざるを得ませんでした。京都府の強豪ということもあり、Bチームでもある程度の戦力があったため、最後の京都府総体は、自分自身もスタメンで出場しブロック優勝で幕を閉じました。別に部から引退をしたからといってサッカーを引退したわけではないのですが、やはり小学校の頃から夢中になってきたものに一区切りが着くというのには思うものがありました。 6月- 世界という舞台、SAT Subject Test またもや撃沈 世界大会の課題動画。ナレッジ共有と最適化を組み合わせた教育サービスを提案した。 サッカーを引退したことによって、学校外の多くの時間が空くことになりました、しばらくはサッカーロスのような状態で家から帰ってきてもやるべきことにあまり手が付かない状態もありましたが、空いた時間を利用して、あまり充実していなかった課外活動を発展させていきました。Global Voicesという翻訳ボランティアをさせてもらっていた団体では、様々な国に在籍するメンバーに調査を行いながら団体内での若者の活動を活発にし、団体外で若者からの認知度を高めるにはどうすればいいかということを考えていました。日本で高校生の活動を取り上げるメディアの取材を受けながら、グローバルマネージャー・日本支部マネージャーからのご協力の元、Global Voices Youth Communityという、世界中で活動するGlobal Voicesの若手メンバーが交流し、外部の若者に活動を発信するコミュニティーを作成しました。Instagram等も開設し、若者向けの発信ポータルをセットアップしていきましたが、夏に3週間渡米し、夏休み明けからはSATと出願エッセイに集中したため、実質的に活動できた期間は短く、成果もある程度におさまりました。 一方で、高校2年の2月に全国大会で優勝し、国際大会への切符を手にしたSocial Innovation Relayでは、海外チームのプレゼンテーションのレベルの高さに衝撃を受けながらも、なんとか世界3位 に食い込むことができ、国際レベルでの受賞歴が手に入りました。 そして、昨年度の12月に舐めてかかった上にWorld Historyを選択する大失態を犯したSAT Subject Testですが、6月の試験でも課外活動の影響で十分な対策ができないまま挑むことになりました。基本的に日本人はMath2(センター試験より簡単な高校数学レベル)と理系科目1科目を受けて満点をとることを推奨されているため、僕もMath2とChemistry(化学)を選択しました。Chemistryを選択した理由は、もう一つの選択肢であったBiologyよりも固有名詞が少ないことに加えて高校1年時に悔しくも化学で4を取ってしまったため、自分の通うSSH校がレベルが高く、この学校で5が取れなかったとしてもChemistryで満点を取れると言うイメージをつけるためでした。ただし対策不足で挑んだため、結果は予想できるもので、Math2が680/800、Chemistryが670/800という結果で終わりました。 7月 締め括りはオール5で。先生が苦悩する学校関係書類の書類作成を依頼。そして3週間の渡米 ニューヨーク、世界銀行にて 高校2年に入ってからは、最低限の勉強で5をとる方法がわかってきたため単なる取るに足りないイベントと化していた定期考査ですが、出願時に提出する成績に関わる試験としては最後となる考査を終了し、高校三年生にして初めてオール5をとることができました。高校一年生の頃の書道や、腰の骨を疲労骨折していたため成績が下がった高校2年の体育によって今まで惜しくもオール5を逃してきましたが、ついに態勢が整いました。 また、考査が終了するとすぐに渡米のために約1週間の公欠をとって夏休みを一足先に始める必要がありましたが、それまでに必ず行なっておかねばならなかったのが、先生へ英語での学校関係書類(学校紹介、推薦状、成績表等)をお願いすることでした。推薦状に関しては当時の担任の先生を含め、高校1年〜2年にかけて担任をしてもらった国語の先生、中学時代に担任をしてもらい、高校になっても英語の先生としてお世話になった先生の計3人にお願いしました。11月1日までには書類を揃える必要があったため、夏休み前から三人には自作の願書出願フォームと学校関係書類に関する分厚い(笑)解説を渡してお願いしていました。というのも、アメリカの大学には早期出願(Early Action) という仕組みがあり、12月末までには合否がわかえい便利であったため、SAT等の基準はある程度低いが留学生に対しても奨学金を出してくれる複数の私立大学への出願を考えていました。別の記事で述べますが、高校三年の初め頃にはハーバードよりも現在通うミネルバが第一志望へと変わりつつあり、合格すればNeed Blind(簡単にいうと年収に応じて学費が変わる仕組み)で進学が確約できることもあって当時はミネルバも早期出願を考えていました。 学校での全てのタスクが終了し、高校生外交官プログラムの高校生40人の一人としてアメリカへと飛び立ちました。ワシントンD.C.、ニューヨークで米国と世界の中枢機関を回りながら、途中でホームステイを挟み、最後の10日間をIVYリーグの一つであるプリンストン大学でアメリカの高校生と過ごすというとても密度の濃い経験をさせてもらいました。プログラム参加時の個人的な目標は、出願エッセイに向けて自分を深く知ることと、実際に英語を使えるようになることでした。本来夏休みの期間はSATの勉強やエッセイのための準備に多くを割く時間であり、遅くとも秋からはエッセイを本格的に書き始めなければならなかったため、より深く自分を知るというコンセプトの含まれた外交官プログラムはもってこいの機会でした。TOEFLは既に目標点に達していたため、試験のためにListeningやSpeaking力を向上させる必要はありませんでしたが、実際に現地の大学に合格し、アメリカで授業を受け生活していけるだけの実力がある自信はなく、本当の意味で生きた英語を習得する必要があるなと感じていました。アメリカ本土という自分の憧れの場所で3週間を過ごすことができたのは、大きなモチベーションとなりました。 8月-課外活動締め括り、自己分析とSAT 8月の上旬にアメリカから帰国し、既に夏休みが残り2週間程度になっていましたが、残りの時間でGlobal Voicesでの活動をできる範囲で仕上げました。また、アメリカ大学出願に際して、生徒は5つの受賞歴を記入することができますが、自分が当時執着していた全国レベル以上の受賞歴がどうしても一つ足りなかったため、東京に出向いて二日間の教育アイデアソンに参加し、なんとか特別賞をいただくことができました。また、9月からはどうしても大学出願に向けてのエッセイを書き始める必要があったので、エッセイのネタ探しを、自分の過去の体験を深掘りしながら自己分析することで行っていました。 9月-SAT特訓、エッセイを書き始めたいと思う日々 9月になって学校が再開し、最終学期に突入したことで、米国大学受験がいよいよ正念場となってきました。SATの受験を10月、11月(Subject Test)、12月に残し、エッセイを書き終えて最終的に全てのアメリカの大学への出願が終了するのが1月半ばなことを考えると、いよいよ時間が限られてきました。 特にSATに関しては、早期出願を狙うのであれば10月の試験がラストチャンスであり、公式問題集での演習と単語帳の暗記を繰り返しながら目標点到達に向けて力を注ぎました。目標点はReading 700点(最低でも680)、Math800点満点、Essay 18/24点以上。前回からSATは130点、Essayは8点上げる必要があり、かなりのギャップがあったため力を入れる必要がありました。SATのMathは簡単な計算問題が多く高くても高校一年生レベルなのですが、Readingに関しては英語で現代文を解いているようなレベルであるため、TOEFLとは段違いの難易度でした。Essayに関しては、前回最低点に近い点数を取り、そもそも何をすればいいか右も左も分からない状態であったので、面識はありませんでしたが、たまたま学校に在籍されていたアメリカ出身の英語の先生に添削をお願いしに行き、Analytical Essayの書き方をゼロから教えていただくことができました。5月に受験したSATでも、EssayのAnalysisの部分がいわゆるゼロ点であったため、本当に何もわかっていない状態で、焦りがありました。 そんな中、エッセイはただでさえ急がなければならないのですが、塾に通っていなかったためにエッセイ作成についてのサポートは受けられなかったので、頭の中では自分をこのように伝えるべきだという方向性がぼんやりとはあったものの、いざ書き始めるとしっかりとした形にすることができず、、そもそもドラフトを書き上げることすらできない状態でした。結局自己分析が足りないのではないかと考えて、エッセイを書かずに自己分析を進めたりしましたが、進展はなく、ほとんどエッセイが手付かずの状態が続きました。 10月 SATと定期テストのダブルコンボ地獄 5月の試験終了から着々と準備を進めてきたSATですが、試験1週間前の追い込み時期に大問題が発生しました。SATに集中したいのに、定期考査が行われるという地獄スケジュールが発生したのです。日本の大学入試で置き換えると、週末にセンター試験があるのに、その週に定期試験が行われるといったような状況が起こっていました。定期試験とSATはなぜか日程が近いことが多く、これまでも起こってきた事態ではあったのですが、正念場となった秋にあまりのドンピシャぶりであったため、もはや笑わざるを得ない状況でした。SATの勉強もしたいけど成績も絶対に落とせないと言う状況であったため、当時の1週間のライフスケジュールは、 帰宅後、日が変わるまで翌日の定期テスト対策→起床時刻の1時間半前までSAT対策 というブラック企業社員のような生活を送っていました。 10月のSATは、前回までは京都の会場で受験できていましたが今回は枠が取れず名古屋の会場で受験することになりました。SATは試験が朝9時から始まるという超朝方の試験なのですが、試験前日に当日京都から向かっても間に合わないことに気づき、定期考査終了後急遽前泊で名古屋に向かったのを覚えています。 結果、テスト終了後は1週間のブラック企業スケジュールのせいで吐き気を伴う強い眼精疲労に陥りましたが、Readingで650点、Mathで730点、Essay17点(6-5-6)と、ReadingとEssayの点数が上がり、ある程度納得できる点数になりました。合計点は1380点で何も変わってないしむしろMathの点数下がってるじゃないか!という話ですが、10月の段階でReading650点を取れたことは自分にとってある意味担保となりました。もちろん、これだけやってまだ50点しか上がらないのか、という気持ちもありましたが、多くの米国の大学にはsuperscoreという仕組みがあり、それらの大学は複数の試験の各科目の最高点を組み合わせて得点を見てくれるため、次回Readingの点数が上がらなくてもMathで満点を取れた場合、10月のReading最高点の650+800で1450点として見てくれるという保険がありました。Harvardの下位25%である1480点にはそれでも届きませんが、StanfordやPrincetonなど、SATのスコアにある程度寛容な大学では、下位25%が1450点前後であるため、SATで1450点を取ることは本当の最低達成ラインでした。 11月 Early Action断念。学校書類にトラブル発生、SAT Subject Test最後のチャンス 11月の始めと半ばに早期出願の締め切りがありましたが、結局断念することになりました。ハーバードに行くぞとみなぎっていた当初は、合格率の高いここで勝負すると意気込んでいましたが、早い段階で間に合わないことが明確になり、なら滑り止めをここで決めておこうと切り替えていましたが、それらの大学に必要な共通エッセイを書き終えることもできませんでした。アメリカの大学に提出しないといけないエッセイは二種類で、どこの大学にも求められる共通エッセイと、大学によって課される追加エッセイがあります。滑り止めの大学には追加エッセイがない大学を選んでいたにもかかわらず、そもそも共通エッセイがこの段階でもドラフトすら書き上がっていなかったため、提出することができませんでした。 そして、3人の先生に作成をお願いしていた出願書類ですが、AETの先生とともに大変苦労されながら作成・提出を進めていただき、11月までに完成させてくださいました。自分で全て説明資料を作成して一からお願いしないといけないのは大変ですが、僕がよく海外進学体験談で目にしていた、生徒が全て書類を先生に代わって書いたり、先生に要求を飲んでもらえなかったりといったトラブルは全くなく、先例のない事態にかかわらず質問があるとき以外は先生側で全面的に引き受けていただけたことは大変支えになりました。しかし、全面的に引き受けていただき、自分が完全に安心し切った中で、大きなトラブルが1つ発生しました。 簡単に説明すると、担任の先生に提出してもらうはずの学校紹介が当初提出されていなかったため、提出をお願いしたところ、手違いで成績書と入れ替える形で学校紹介が提出されてしまいました。すなわち、自分の成績の代わりに学校紹介が見られてしまうと言うとんでもない状態になってしまったのです。そして厄介なことに、先生の提出書類は一回のみ変更が許されていますが、その一回の変更でミスが起こってしまったため、ポータル側からはなんともできない状態になってしまったのです。そこから芋づる式にミスが発覚し、GPA(アメリカ式の学校の成績)の評価基準が違っていたり、全校生徒数が7人になっていたりと、受験で大きな誤解を生みかねないミスが至る所に発生していました。自分が先生にお任せするあまり提出前の確認を怠ったのが悪いのですが、当時は「分からへんのに確認せずに何勝手なことしてくれとんじゃ!」(実際には言ってません)と、ほぼブチギレの状態でした。今まで死に物狂いで積み重ねてきたものが、もし学校側の書類ミスで白紙になってしまえば、今まで費やしてきた労力はどうなるんだと、怒りと焦りが入り混じった精神的に不安定な状態に陥りました。解決策を探すために、当時コンタクトを持っていた海外進学塾の運営の方に連絡し、塾生でない自分に親切に各大学に出願後先生からすぐに訂正のメールを送るようにアドバイスをくださりました。また、出願予定の大学からも、学校側のミスはあなたのせいではないからそれが合否に関わることはないよと返答をもらい、事態は事なきを得ました。ミネルバ含め合計25校に出願したので、それぞれの大学に別のメールを送らなければならないのは大変でしたが笑。 10月のSATが終了してすぐに、11月の最後のSAT Subject Testに向けて準備を始めました。アジア人は理系科目に強いと見られる傾向があるため、Subject Testでも満点をとることが望ましいとされますが、今までの受験では700点台にも乗ったことがないため、分からないところを徹底的に潰し、読み間違い等もゼロに近づける必要がありました。Chemistryに関しては文系で化学基礎と化学の触りしか学校では演習していなかったため、アメリカならではの範囲や、高校化学に該当する範囲の問題にも対応する必要がありました。教材で演習を重ねながら、分からないコンセプトや問題があれば、日本語に訳して化学の得意なクラスメートに教えてもらい、知識だけでなく「なぜ」そうなるのかというコンセプトのところまで徹底的に埋めて行きました。受験勉強で忙しいにもかかわらず、学校外でもLINE等で何度も丁寧に質問に答えてくれた友人には感謝してもしきれません。とにかくSATの教科書から分からない部分を一切なくし、過去問でしっかりと満点が取れるようにして行った結果、あまり自信はありませんでしたが、Math2、Chemistry両方で満点をとることができ、残すはSATとEssayだけという状態になりました。 12月 最後のSATと後悔だらけのエッセイ地獄 11月のSAT Subjectが終了し、残すはSATとEssayという状態になりました。SATに関しては、まずMathを満点まで引き上げることを最優先事項とし、対策をしていきました。内容的には高校一年生レベルで非常に簡単な試験である一方、読み間違いや凡ミスによって満点獲得を逃してしまう試験であることから、過去二回でも満点をとることができないでいました。SATの公式練習問題を出しているKhan Academyの動画等で必要なコンセプトをしっかり抑えながら、過去問で自分のミスする癖や注意すべき点を洗い出し。徹底的にミスをなくすトレーニングを行いました。Essayに関してもアメリカ人の先生からの添削を行ってもらい、目標点を目指しました。その一方で、10月に最低限の点数を確保できていたReadingへの対策はなおざりになってしまいました。本来であればより点数を上げていかなければなりませんが、とにかくMathで満点をとることが一番の得点アップ方法であったため、そこに集中していました。その結果、Mathは満点に達し、Essayも18点(7-5-6)の目標点に達しました。しかし、Readingに関しては完全に迷走し、本番前夜に戦略を変えたこともあって初回の600点より低い570点を叩き出しました。出願先はSuperscoreを取り入れている大学ばかりであったため、実質的には1450点という点数を確保することができ、なんとか崖にしがみついている状態で最後の関門、Essayへとコマを進めました。 さて、3年間の集大成としてエッセイ執筆に集中する時がやってきたわけですが、もう12月です。ほとんどの志望大学の出願締め切りが1月1日であり、時間がない中で共通エッセイすら書き終わっていないという遅れに遅れた状況でした。とにかく一度書き切ってしまえばAETの先生に添削をお願いすることができるのに、そもそもエッセイを書き切るというところまでいくことができずに9月からずるずると遅れをとっていきました。あまりにも共通エッセイが終わらないため、並行して各大学のエッセイも構想していきながら、先生に共通エッセイを初めて添削してもらえる段階に至ったのが12月初旬だった気がします。結局、締め切り間近まで共通エッセイをできる限り改善しながら、出願校25校のうち約10校で求められた追加エッセイを急ピッチで仕上げて行きました。お題が似ていて使いまわせるエッセイもありましたが、大学によっては複数の追加エッセイを求めてくるところもあり、なかなか書き終えることができませんでした。塾に通っていない僕がエッセイを添削してもらえるあては、学校のアメリカ人の先生、AETの先生、アメリカに帰国なさった元AETの先生とほぼ学校に依存していましたが、12月下旬には冬季休業に入ってしまい今まで頼っていたアメリカ人の先生が帰国されることになったため、書き終えていないエッセイが大量にある中で添削してもらう人が完全になくなりかけていました。そんな中で、職員室に伺って在籍されている二人のAETの先生に、学校が完全に閉まる28日までいらっしゃる方はいないか尋ねに行ったところ、カナダ人の先生が最後まで残っているからいつでもエッセイを持ってきていいよと仰ってくださり、ネイティブからの添削を年末まで受けられるようになりました。冬季休業に入ってからも学校で国内受験の勉強をしている仲間の横でMacbook airの画面に向かって、アイデアを振り絞りながらエッセイを書き続けました。終盤は肉体的にも精神的にも疲弊していて、文章が全く書けず、眼精疲労で全く進められない時もありましたが、進路は違えど共に頑張っている仲間からの理解と、AETの先生からの暖かい言葉に励まされながら、休校までできる限り書き進めました。結局人から添削をもらえる最後の期間までに完成させられたエッセイはほとんどありませんでしたが、最後まで協力してくださったAETの先生には本当に感謝してもしきれません。 学校が閉まってからは、年末で知り合いにも添削を助けられるような状況ではなく、かといって今更有料のエッセイ添削サービスを使うような余裕もなかったことから、機械添削のGrammalyの有料版に僕のエッセイ添削者になってもらうことにしました。クリスマスプレゼントに親からもらったスターバックスギフトカードを持って年末年始、近くにあるスターバックスに自転車で通い詰め、なんとか提出ができるようにエッセイを間に合わせようとしていました。今まで3年間、成績や、テストや、課外活動など、様々な努力があった一方で、人柄やその人のストーリーを見る一番重要な要素のエッセイの出来が悪くてもし印象が下がったりそもそも出来上がらなくて夢の大学に志願すらできなかったら、残念どころの話ではないということに気づき、もっと早めから自己分析以前に書き切ることを重視してエッセイを進めておくべきだったと、後悔の念にも駆られながら、集大成として、今自分がぶつけられるものを全てぶつける気持ちでエッセイを書きました。年末年始を返上して締め切りの数分前まで修正を続け、ギリギリでなんとか提出し、僕の3年間にわたる米国大学受験生活が少しずつ幕をおろして行きました。 1月 ミネルバを受験し全志望大学出願完了 最終的に出願した大学。IVYリーグ校やリベラルアーツ含め合計24校に出願した 1月1日、2日に大多数の大学への出願を完了し、少し締め切りが先立った大学と締め切りが2月のセーフティー校に出願し終えて、3年間にわたるアメリカ大学受験が幕を閉じました。 僕が今通うミネルバ大学は出願締め切りが1月15日だったので、少し出願が落ち着いてから集中して受験に挑みました。 この時点でミネルバが第一志望であり、いわゆる専願で受験し二月に合格をいただくことになるのですが、今までの記事を読んで、「一体いつの間にハーバードからミネルバに第一志望が変わったんだ!?」や、「なぜここまでやっておいて他の大学の結果を知ることができない専願を選んだの!?」と言う疑問をもたれる方もいると思います。これについては、受験終了後のストーリーも含め、最終話となる次回にお話しします。 おまけ ノー勉で共通試験を記念受験した話 この記事の最後に、アメリカ大学受験終了後にセンター試験を記念受験したお話を少ししたいと思います。 多くの生徒が京大東大を始めとする国公立を目指す(自称?)進学校に通っていたこともあり、センター試験を受けると言うことには単純に憧れがあったので「受験勉強なしでどれくらいセンター試験で点数を取れるのか」調査するためにセンター試験は記念受験することにしました。同級生も同じ会場にいたので、彼らを全力でサポートするのを最優先事項としつつ、自分自身は日本の高校生のビッグイベントを存分に楽しむべく試験に挑みました。理社では、三年時に選択していた世界史Bを問題を見て、「あ、これ日本史やった方が点取れるわ多分」と予定を急遽変更して日本史Bを受験したり、生物基礎がピンとこなかったのでSATやったしなんとかなるやろと、過去問すら解いたことのなかった化学基礎を受験するという完全に受験を舐めた所行をしていましたが、総合得点率8割と言う結果に終わりました。一番驚いたことは、同じ学校で同じコースに在籍していた国内大学受験生よりも未対策の僕の方が点数が高いことがざらにあったことです。いやお前が頭いいだけだろという批判が来そうな表現なので先に明確にしておくと、ここで指している国内大学受験生は僕と同じように中学受験をして入学したある程度地頭の良い中高一貫のクラスメートのことです。 ここから学んだのはいかに学校の勉強がセンターにおいて重要かということで、もちろん自分の学校でそれに向けた対策が授業として行われていたり、英語、化学、政治経済等に関してはセンターとは関係ない課外活動や米国受験で勉強していたと言うのも大きいですが、オール5のためにがむしゃらに定期テスト対策することとセンター試験の得点の相関が垣間見られた経験でした。

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地方公立の落ちこぼれが独学で世界最先端ミネルバ大学へ海外大学進学した経緯

前回のあらすじ 中学卒業後、ハーバード大学に一目惚れした僕は、がむしゃらにハーバード合格に向けて動き始めた。当初はハーバード第一志望という進路希望に困惑されるばかりだったが、試験や活動への姿勢を見て、自身の取り組みを見守ってくれるような人も増えた。一方で、実績面でうまく行かないことも多く、ハーバード進学に立ちはだかる壁も感じさせられた1年間だった。 高校2年:失敗、進歩、焦り 高校一年の終わり頃に参加したRoute H(日本において海外トップ大進学を開拓した塾)主催の海外トップ大学進学説明会にて、実際にハーバード大生や講師から進学までのステップを生で聞く中で、自分の現状と彼らの間との大きな差、そもそもの地頭の違いを実感し、東大か京大とアメリカのトップ大学の併願は自分には合わないと考え、本当に行きたかったアメリカのトップ大学のみに出願することを決意しました。 高校一年時に我武者羅にもがいたおかげで、何をどれくらいすれば成績で5が取れるのかというのがわかるようになりました。それまでは数週間かけて対策していたものが、数日、もしくは一夜漬けで対応できるようになったため、そこで浮いた時間をより課外活動に費やすことができるようになりました。高一の冬から参加したStanford e-Japanで特別賞を受賞したり、京都大学法学部の選抜プログラムに合格し大学レベルの法学・政治学を学ぶなど、一年目で経験したギャップと失敗を原動力に改善を続けていきました。高校二年生の5月には、世界の人々の声を多言語で届ける世界最大規模のオンライン市民メディア、Global Voicesの日本語翻訳者として当時最年少で加入し、自身の英語力を活かす活動を始めました。最年少とは言いましたが、実際に重要なのは年齢ではなく、こういったプロジェクトに恐れず参加していけることだと思います。米国トップ大学を目指すにあたり、最年少や~初といったような書き方を意図的に行っていった点はありましたが常に違和感がありました。こういった米国トップ大学進学における「誇張合戦」ともいえる現象については別の記事で触れたいと思います。 夏休みには、サッカーの合宿を一部諦め、二週間オーストラリア、パースの高校に留学しました。1/3でも少し述べた、高校生外交官プログラムでアメリカに3週間行く気しかなかったので、落選したときには高校時代に短期留学をすることはあまり考えていませんでした。しかし、京都府から留学の奨学金を貰えることになったため、せっかくだから海外の高校生活を経験したいと、渡豪することにしました。 パースの高校にて到着するまである程度のワクワクと緊張感はあった一方で、サッカーで遠征慣れしていたり自分の気質の影響があったりして特に一人で英語圏で何かすることへの不安はありませんでした。マレーシアから移住してきたホストファミリーに初めて挨拶した際に、「あれ、君めっちゃ英語喋れるやん。全く困らなさそうやね。」というような反応をもらい、あ、これ案外何とかなるわ、肩の力を抜くことができました。なんやかんやで学校でのオーストラリア鈍りとネイティブのスピードには苦労しましたが、京都の公立でしか勉強したことのない自分にとってこの2週間はとても新鮮なものでした。 歯車が何とか回り始めた感触もある一方で、自分の目指す理想とは程遠く、度重なる失敗に常に焦りを感じていました。昨年度校内優勝者として参加したスピーチコンテストもまさかのクラス内書類選考で落とされ、「え、なんで俺が?」と思い悩みました。参加するビジネスコンテストでは全て一次選考で落選。昨年の雪辱を晴らそうと万全の状態で挑んだエコノミクス甲子園も決勝での判断ミスでまたも全国大会に進めず、常にもとかしい思いでした。サッカーでは相変わらずトップチームに入ることはできず、調子の上がっていた時期に腰の疲労骨折で長期離脱も経験し、中学時代の自分のサッカーに対する態度に後悔を感じながらもできることをやっていました。(高校時代の取り組み方が全く持ってベストではないのも今からすれば明白ですが当時の視点から書いているのでこれについては省略します)。 生徒会に対する諦め 自分に能力があればという反省は置いておいて、当時の自分は生徒会の理想と現実のギャップに苦しめられていました。私立学校で生徒が主体となってやりたいことを好きなだけやらせてもらえる生徒会とは全く違い、ほぼ教員と伝統によって決められた結論ありきのタスクをこなすだけの生徒会に自分は失望していきました。また、役員のマインドセットも保守的であったため、当時伝統や固定概念にとらわれる人間に無条件で嫌悪感をいだく傾向にあった自分は、彼らを敵対視するようになりました。特に嫌だったのが、役員選挙は本来生徒全員に被選挙権が与えられているものの、実際は既に生徒会に入っている人間から各役職に立候補する人間を一人決めるという形式的な選挙になっていたことです。一年の後期に当時の生徒会長のほぼ独断で役職の選挙にすら出られないことになり、生徒会長になるのが不可能になった時点でモチベーションはゼロになりました。今から思えば抵抗するだけの勇気があれば、生徒会会則上出馬の禁止は不可能なので、簡単に当選できていたのになあと後悔しています。まあ後悔するのは簡単なんですけどね。 求めている環境もなく、モチベーションもなく、はたまたそのようなコミュニティをいかにして変えていくのかというアイデアもなかった自分は、生徒会活動は海外受験のための肩書きとして必要最低限だけやっておこやっておこう(両立しているという事実に価値を感じていたので)という方向性に切り替えました。 12月-SAT subject test(注1)、撃沈 某海外トップ大進学塾の受験体験談を読んでいると、成功している学生はSAT subject test満点を早めにとっている生徒(帰国子女なことが多いが)が多いことに気づき、自分も一発で満点を取らないとというような心意気でSAT Subject Testに臨みました。。これから三年12月のSAT終了まで常に悩まされることになりますが、なぜかこのSAT(注2)というのが学校のテスト期間と丸かぶりすることが多く、まだ何回が余裕があると言う妥協も重なり、ほとんど勉強することができないままで受験しました。受験科目はMath2(注3)とWorld History。対策以前に、中国人の名前が全て英語表記になって意味がわからなくなったり、範囲も全然違うような世界史を文系だからと言って受けたのが大間違いでした。いろいろな情報源にも書いてあることですが、よほどアメリカ版世界史に精通していたり、一般的に日本人が得点を取りやすい理系科目が日本一できない等でない限り、Subject Testで文系科目をとるのは絶対にやめたほうがいいと思います。 3月-欠けていたピース この段階ではまだハーバードが第一志望だったので、自分の中ではかなり苦しく、あきらめという言葉が頭によぎるとこもありました。 ハーバード入学のためのストラテジーとして挙げた数項目、ほとんど達成できておらず、特に重要視していた、全国・国際レベルでの活躍という項目が埋まっていませんでした。もし世界大会での実績や全国優勝ができなければ、ハーバードやIvy Leagueは射程外になってしまうのでは。そういった不安と向き合っていました。 しかし、今までまるっきりダメだったビジネスコンテストの中で、順調に勝ち上がり、全国大会への切符を手にすることができた大会が一つだけありました。Social Innovation Relayというソーシャルビジネスプランコンテストで全国大会出場7チームのうちの1チームとなることができました。当時のことを思い返すと、もちろん締め切り直前まで推敲したり練習したりと、ベストは尽くしていましたが、自分たちが優勝できるといったイメージや世界大会に行けるという確信はこれといってありませんでした。しかし結果は優勝、10ヵ国の参加する国際大会に参加することができました。 優勝し、帰洛した夜に母親に言ったことを覚えています。 「もし次国際大会で入賞できたら、まじでハーバード受けるから。」 と。 Social Innovation Relayを皮切りに、課外活動にかなり勢いがついてきました。 昨年度自身満々で応募し、二次選考で落選した高校生外交官プログラムにも、諦めがつかずダメ元で申し込んだところ、まさかの合格。三年の夏休みを3週間アメリカで過ごせることになりました。 結果がなかなか出ず、苦悩する中で、少しずつ光も見えてきた高校2年でした。 コラム: 留学はすべきか? 留学は全くする必要はないと考えています。前述したように二週間オーストラリアに留学しましたが、海外進学を~海外進学を目指すための英語力として、正直二週間で英語力が上がるかと言われればあまりそういうわけではなく、どちらかといえば海外の学生生活を体験できるので大学進学後に慣れという点で影響してくるかなあというぐらいだと思います。リスニングという点ではやはりネイティブの中に紛れ込めた点はプラスだとは思いますがそれが劇的に英語力を変えるかと言われるとそういうわけではありませんし、この短期留学がなくてもTOEFLで100点は取れていたと思います(3/3で書きますが、高三の時に100点を超えることができました)。海外受験のための英語力向上に留学は決して必要ではないので、そこは個人の考えや英語レベルにも寄るかもしれませんが、自分のやりたい経験を求めて海外に行く過程で、たまたま英語を使うくらいの心持ちで良いのではないかと思います。 注1. SAT Subject Test アメリカ版センター試験SATの選択科目。多くのトップ大学で受験が推奨されている。 注2. SAT アメリカ版センター試験 注3. Math2とは日本で言う数学2とは別のものです。

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地方公立の落ちこぼれが独学でハーバード大学を目指した結果

(本投稿は、2020年投稿のブログ記事をNoteに再掲載したものです。元記事はこちらへ。) お久しぶりです。梅澤 凌我です。長らくお待たせしてすみません。8ヶ月前の渡米までに投稿するつもりだった僕の受験体験談ですが、ついに投稿することができました。前回の内容を忘れてしまった人はこちらからどうぞ。 ハーバード入学のためのストラテジー 僕が中学卒業後からどのように動いていったのかを説明するために、まず自分が描いていたハーバード合格のための大まかな受験戦略を説明しようと思います。実際に合格したり受験したわけではないので完全に主観ですが、当時の自分にはこれを成し遂げればハーバード に行けるという絶対的な自身と情熱がありました。 – 学校でトップの成績を取る– サッカー部(京都トップレベル)でレギュラーを取る– 生徒会長になる– 国際的な大会で結果を残す– その他主要な試験で好成績を残す「これらを海外進学実績なしの公立高校から純ジャパが塾なしで成し遂げる」 試験の点数で合格が決まるわけではないアメリカの大学入試は、要件さえ満たせば合格できるような容易いものではありません。しかし、もし日本の私立やインターナショナルスクールといった海外進学実績のある日本の最上位校の生徒が塾のサポートをも受けてやっと成し遂げたような内容を地方公立の純ジャパがそれ以上のスポーツ実績を残し、かつ塾なしで実現することができれば、かなり高い評価を得られるであろうという根拠のない自身がありました。インターネットから得た海外進学やハーバード の情報から、ハーバードは、地方の非国際的なコミュニティでも型を破れるような異才を評価するだろうと確信していました。簡単に言えば、自分より恵まれた環境にいる純ジャパが、高い成果を出して評価されているのであれば、同等またはそれ以上のことを、より不利なバックグラウンドにおいて達成すればより一層評価されるに違いないと考えていました。 高校入学~1年次終了:がむしゃらにもがいた一年目 高校一年目の年間スケジュール 高校での平日スケジュール 中学卒業後のアメリカ研修から帰国し、とてつもないエネルギーを得た僕は、ハーバードに入学するという目標を打ち立てて高校生活の幕を開けました。 中学受験前から目標としていた京都トップレベルのサッカー部で週7日活動しつつ、中高一貫コースの京大・東大を見据えたカリキュラムをこなすというのは、ハーバード を目指す前から当たり前のように捉えていました。 この段階でも一般的ではなく、母校においては稀に見る生徒で、過去に同じことをした生徒は歴史上僕を含め当時3名程しかいませんでしたが、ハーバードで文武両道の定義を覆され、そしてやりたいことがあれば妥協せずに全てに全力を注ぐと言うマインドセットを得た僕はそれで満足することはできませんでした。 生徒会執行部担当の先生を半ば困惑させながら生徒会執行部へ乗り込み、1年前期から書記に立候補し任命され、中高一貫・強化指定サッカー部・生徒会執行部役員という母校の歴史上前代未聞の兼任を行いました。 相手にされない海外進学ビジョン そのように入学当初からエンジン全開で様々な物に手をつけていった自分ですが、海外進学というビジョンに関しては、3年間ほぼ相手にしてもらえませんでした。しかしそれもそのはず、海外進学実績のない高校で中学時代特に学業で突出していなかった自分が4月の進路希望調査でいきなり第一志望をハーバード大学と書いたところで先生が本気にするはずもありません。初めの三者面談で僕が京大等だけでなくアメリカのトップ大学を視野に入れたいと述べたところ、先生には「それは普通の大学のことができてから考えようか」というような反応をされました。 否定→様子見への変遷 高校一年目で自分がまず一番に取り組まなければいけなかったのが成績の確保でした。中学二年時の中だるみ時には5段階中2も経験し、SSH校で理系分野に突出した生徒が多いこともあり理数系で5を取るといったようなことはほとんど考えられなかった僕にとってオール5はおろかオール4すらも厳しいと感じられるような目標でした。ただハーバードに入りたいならやるしかない。有り余る情熱を注ぎながらとにかくがむしゃらに突き進み続けました。 平日は毎日サッカー部の朝練に参加するため毎朝五時半に起床、地下鉄を使い一時間かけて学校へ登校し、1500m走から始まる朝のフィジカルトレーニングをこなしました。その後授業を受け、昼休みは生徒会活動に従事、その後大体19時ごろまで部活をし帰宅。土日はもちろん部活。そのような中で隙間時間は常にTOEFLの単語帳に目を通し、帰宅後はとにかく最低二時間以上は勉強することを心がけていました。 特に定期試験に関しては力を注ぎました。オール5というのは自分にとって遠い世界であったため、時には試験一ヶ月前から試験対策を始め、テスト3週間前から1日6、7時間勉強するような時期もありました。モットーは「教材に乗っている情報を全部覚えれば勝ち。」時間がかかる効率の悪い勉強ですが、睡眠時間やテスト前に部活が制限されてできた時間を費やし、三時間も寝られなかったとしても、それが当然だと考えていました。 そういったある意味ブラックな中でももがき続けられたのは、そこまでして自分を突き動かす情熱と、「アメリカのトップ大生は毎日深夜まで勉強しまくっているのに、テスト期間だけでさえそれができなくてどうすんねん」という考えがあってでした。 5月になり、迎えた高校初めての定期試験。自分にとっては毎回の考査がセンター試験のような緊張感でした。試験開始前に毎回瞑想したり、真剣であるが故に筆記の音がうるさすぎてクラスメイトから笑われましたが、自分にとっては本当に毎科目が修羅場でした。 テストが終了し、結果はいい意味で自分の想像とはかけ離れたものが返ってきました。受験した複数の教科で学年またはクラストップの点数を獲得し、成績が思わしくない頃の自分を知るクラスメイトを驚かせることになりました。 初めての試験で結果を残すことができたのは、先生からの印象を変えるという意味でも大きかったです。中学の頃は、英語ができただけで学業全体として秀でていたわけではなかったにもかかわらず、高校では強化指定のサッカー部で活動しながら生徒会役員も兼任する。しまいにはハーバードに行きたいと言い始め、実際にそれに向けた姿勢を示すこともできました。そもそも前代未聞の事柄に特に実績のない人物が挑むというのは、彼らから見れば冗談にしか捕らえられなかったのも仕方のないことだと思います。ハーバードを目指そうとしている生徒を一条校の教員が捉えるにあたって、考査で結果を残すというのは、前提中の前提でしょう。しかし、学業以外で型破りな活動をしながら、学業成績を飛躍させ、情熱を示すことができたのは彼らの見方を変える一つ目のステップになったと思います。 その後の7月の考査では更なる飛躍を見せ、正式なデータはないものの恐らく総合成績で学年1、2位を記録しました。予想外だったのは考査だけでなく模試でも飛躍が見られ始めたことです。低学年時の大学合格判定はあてにはなりませんが、今まで英語以外の模試の成績で上位層に入ったことのない自分が、上位に食い込むことができました。高校1年第2回目の模試では東京大学と京都大学に対してA判定と診断されました。 光と影 英語スピーチコンテスト京都府南部大会にて。自身の英語力を客観的に見返す良い機会となった。がむしゃらにもがく中で、初めは全てが順調に行っているように思われました。しかし、高い目標を掲げる中で徐々に苦難も見えてきました。 課外活動で、まず自分が目につけたのが、スピーチコンテストでした。全英連主催の大会で、僕の学校からも毎年選抜で2名が京都南ブロック大会へと出場していました。高校1年生と高校2年生が対象で、各学年代表4名の校内予選。僕は高校1年代表の一人として、予選に出場し、校内予選では先輩方を抑えて優勝を飾ることができました。 過去の校内予選では1年生が代表に選ばれる、ましてや優勝することはほぼなく、大会の雰囲気を変えることができた素晴らしい経験でした。 しかし、府南予選を突破したものの、府大会で敗退し、自分の能力のなさを痛感しました。中学から英語を得意とする中で、自分は英語の発音が得意だとずっと思い込んでいました、しかし、現実の評価は厳しいものでした。イントネーションがおかしい、何をしゃべっているのか聞き取れない、と手厳しい指摘を受け井の中の蛙状態であったことを思い知らされました。 また、サッカーでも、府トップレベルの選手が切磋琢磨する環境の中で、中学時代に生まれてしまったギャップが露見していきました。中学校のカリキュラムと通学時間の関係で本来3時間ある練習に約半分しか参加できず、祝日には練習や試合を休まなければいけない日もありました。そして何より目立ったのがサッカーIQの低さ。中学の頃から、ミスをしないための消極的なプレーをしてしまっていたこと、サッカーの試合も全く見ないようになり、プレーの研究も全くしなくなったことが影響し、パスをもらうことを恐れ、もらったときにも、もらってから次のプレーを考えるような典型的なダメなプレイヤーになっていました。我武者羅に努力することだけが取り柄だった自分は、とにかく持久力だけはありましたが、サッカーに対するスキル・知能というものは小学校時代から全く成長していませんでした。サッカーでレギュラーを取り、顕著な成績を残すことを目標にしていた自分ですが、現実は程遠いものであることがはっきりとしてきました。 中学卒業後に対策をし始めたTOEFLも11月に受けた初めてのスコアは77点。会場の雰囲気にも圧倒され、目標の100点からは未だ程遠いことを知りました。 エコノミクス甲子園という経済に関するクイズ大会もたった一点の差で全国大会にいけず、GECという国際大会につながる12時間のビジネスハッカソンも全く歯が立たず敗戦。国際大会は愚か、全国レベルにすらのし上がることができず、焦りを感じていました。1番の挫折だったのは、HSDという全国の高校生が40名選抜され、全額支援で3週間アメリカで国際経験を積むプログラムに落とされた時でした。1次選考の書類にありったけの情熱を注ぎ込み、二次選考で80人から40人に絞られるという段階にたどり着いた時点で、自分は絶対に受かると根拠のない確信を抱いていました。しかし、現実は全く甘くなく、直面したのはやはり自分が井の中の蛙であったという現実それだけでした。中学高校と同じ場所同じメンバーで生活する中で、自分にとって洛北だけが世界でした。一方で2次選考が教えてくれたのは、日本だけでも、情熱を持って何かに向けて活動している学生はたくさんいて、どれだけ自分が傲慢で無知だったかということでした。同時期に合格し受講したStanford e-Japanというプログラムでも、帰国子女か否かを問わず高い英語力を持ち、様々な分野で活躍する高校生たちに出会うことができ、自分が今どのような水準にいるのかということを認識するきっかけとなりました。 高校1年目は、我武者羅にもがき続けた中で、現実を認識することができた重要な基盤づくりの期間でした。 高校一年目での達成状況 後編 2/3に続く

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地方公立の落ちこぼれ純ジャパが独学でハーバードへの海外大学進学を目指した訳

ハーバード大学を訪れたプログラムで提出した感想文。あまり大っぴらにはしていないが絶対にハーバードに行ってやると言う熱意を胸に書いていた。 こんにちは。梅澤 凌我です。今回は、純ジャパ日本人で公立高校出身の僕が、なぜ世界最難関とも噂されるミネルバ大学に塾なしで進学するまでに至ったかを、幼少期から、大きな変換期―ハーバードを目指すようになったきっかけーまで話していきたいと思います。 幼少期〜 幼稚園在学時もしくは小学校低学年時の写真。当時は昆虫が大好きで将来親友とアマゾンに虫取りに行くのが夢だった模様。 2001年に生まれ、そこから18年間京都で育ってきました。 父は地方公務員で母は元幼稚園教諭(最近になって復職)。どちらも京都生まれ京都育ちで、周りにインターナショナルなバックグラウンドは特にありませんでした。 幼稚園入園の記憶は一切ありませんが、電車が大好きで、京都駅に新幹線をよく見に行っていたそうです。当時は言えない電車の名前はなかったそうです。 幼少期には泣き虫と呼ばれることが多かったです。特にこれといった取り柄はなく、何においても負けては悔しくて泣いていたのを覚えています。その点では昔から負けず嫌いだったのかなと思いますが、当時の幼稚園の先生からの印象は、「ずっと鼻水を垂らして自由気ままにぼーっとしている子」といったようなもので、実際は、悔しいから、負けたくないから、といって何かに本気になれたことはあまりありませんでした。それなのに、昔から夢見がちな性格で、当時平泳ぎで世界を圧倒していた北島康介選手を見て「水泳選手になりたい!!」と言ったり、レギュラーというお笑い芸人のあるある探検隊を見ていきなり「芸人になりたい!!」と言ったり、昔から様々な大きな目標(笑)を抱くのが好きな人間だったのかなと思いました。 そしてなぜか、自分が本気で「やりたい!!」と思ったことに対して、僕は才能が全然なかったことが多く、基本的にゼロからのスタートでした。幼稚園年中ごろから初めた水泳も、初めは水に顔をつけることすらできない状態からのスタートでした。後述するサッカーについても、チームで一番と言っていいほど下手でした。 そんな自分にとてもプラスに働いたと感じているのは、親が自分のやりたいことを全部応援してくれる人であったと言うことです。自分の理想を押し付けるのではなく、子供がやりたいことをやればいい。ただやるからには真剣にやらせるという方針でした。 こういう環境で育ったからこそより広い世界に目を向けられるようになったいうのは間違いないと思います。 全ての原点、そして人生初めての挫折 小学校2年生頃の写真。サッカーを初めて二球目のボールをゲットした夜と推測される。 今までの人生で、サッカーが様々な面で自分を形作る原点になったと感じています。幼稚園で休み時間に流行っていたサッカーに混じったことがきっかけで、小学校入学後から地元の少年団で本格的に習い始めました。京都府では有名なチームの一つで、6年生の先輩が京都府の決勝大会でプレーするのを見て、やはり夢見がちな自分は、自分もここでやりたい!!という願望を抱きました。しかし、蓋を開けてみれば、自分は練習中に友達と追いかけっこをしたり砂を掛け合ったりする不真面目極まりないメンバーであった上、チームで一番足が遅く、技術もないという有様でした。自分は大きな願望を持っているにも関わらずそれとは程遠い自分に何か焦燥や劣等感のようなものは全く感じず、ただただ幻想を抱いているだけでした。 そんな自分を変える出来事が小学校二年生の夏頃に起こりました。チームで初めての選抜試合が行われることになり、夜の練習後にコーチがチーム全員を集め、メンバーを発表した時のことでした。 「梅澤、〇〇、〇〇。」僕の名前に続いて、二人の名前が呼ばれ、僕はメンバーに選ばれたのだと勘違いしました。しかし直後、コーチから飛んできた言葉は僕に絶望を与えました。「今呼ばれたやつ『以外』が(試合に)行く。」7歳の自分が感じた人生で一番の悔しさでした。その時初めて、状況を変えるために何かしたいと言う強い思いが湧き上がって来たのです。 そこから毎日、母の提案で父と近所の公園で朝練をするようになりました。毎朝6時に起き、近所の公園までランニング、そこから1時間のパストレーニング。この毎日のタスクが、自分にとってどれほど大きいものとなるか、まだその頃は知る由もありませんでした。 朝早くに起きるのが苦痛なあまりに、母親の携帯のアラームから鳴るウクレレの音が大嫌いになりました。たまたま祝日に自転車で公園に向かった日には、寝ぼけていたのか自転車ごとドブに墜落したこともありました笑。 走れる距離で開かれているサッカースクールや催し物には全て親が自転車で行くのを僕がランニングで追いかける形で行っていました。夜の街に置いてけぼりにされるのが怖くて時には半泣きになりながら走ったのを覚えています。 しかし、トレーニングの甲斐もあってか、3、4年生になって特にパスセンスが上がり公式戦やカップ戦にも控えながらも少しずつ呼ばれるようになりました。 練習の成果が特に開花したのは5年生になった時でした。当時しばしばメンバーに選ばれると言っても控えだった僕ですが、とあるコーチの目に止まり、いきなりAチームに抜擢されました。その時のコーチのコメントは、今でも鮮明に覚えています。「梅(当時のニックネーム)がAチームで意外と思ってる人は結構いるかもしれんけど、こいつ、めちゃくちゃ走って頑張りおるで。」試合での体力を生かした泥臭く粘り強いプレーが評価され、トップチームに入ることができたのです。これは自分にとって大きな自信となりました。そこから自分のそういったプレーに自信を持ちサッカーに臨んで行った結果、Aチームでの公式戦初日でゴールを決めるなど、どんどん自信がついて行きました。 その後、全日本選手権の京都府予選ではBチームに降格するなど、悔しい出来事も沢山ありましたが、最終的に、6年生最後にして京都府最大の公式戦であるサンガカップで優勝することができ、これが非常に大きな自信となりました。 京都府の小学校世代最大の公式戦、サンガカップ優勝後の一枚 そして同時期に、サッカーをキッカケとして、サッカー以外の面でも成功を納めことができました。小学校中学年の頃に見ていた高校サッカーで京都の名門校に憧れ、そこでは文武両道が求められると知って真剣に勉強に取り組むようになりました。そう言った経緯で小学校3年の夏頃から某通信教育教材を中心に熱心に勉強をはじめた結果、小学校高学年の頃に成績が学年トップクラスにまで急上昇しました。そして小学校の先生から中学受験と言う選択肢を教えてもらい、京都の公立中高一貫校である京都府立洛北高等学校附属中学校の受験を決意しました。そこでは高いレベルで勉強ができるだけでなく、高校課程では京都府の強豪洛北サッカー部でもプレーできるという魅力がありました。 サッカーや水泳に打ち込んでいたため、塾に行く時間や予算があるわけもなく、その当時も塾なしで受験に挑みました。市販の問題集に親と悪戦苦闘しながら、1年間勉強に励みましたが受ける模試は結局C、D判定。算数は本番までで1回も5割以上得点できることはなく、受験後もまあ受からないだろうなあという心持ちで過ごしていました。 合格発表当日、中学校の校門を潜り大きなテントの下に設置されていた番号表へと向かいました。少しずつ歩み寄る中で、「あれ、8番(自分の受験番号)あるくない?いやそんなわけないか、いやあるくね?いやないか。」という葛藤が当時視力が下降気味だった自分の中で巻き起こりました。間近まで来たわけですが、やはり自分の受験番号らしき「何か」が確実にある。二度見、三度見した後、ようやく喜びが自分の体を駆け巡りました。 当時の合格者番号表は今でも思い出として写真に残しています 最後までサッカーを続け京都府優勝、そして塾なしで中学受験を成功させる。自分にとっても周りにとっても類を見ないことでした。周りでは、小学校低学年からその学校に行くために塾に行き始め、途中で自分の所属していたサッカー部をやめてまで勉強する人がいる中で本当に自分が受かるなんて誰も想像していませんでした。 この経験は、結局自分が夢のまた夢の状況から「ハーバードに行きたい!」と大口を叩く自身の根拠になっていたのかなと思い返します。中学二年生の頃にサッカーもうまくいかず、成績も下から数えた方が早かったような純日本人がビッグマウスでいられたのは、努力の大切さ、方法、そして何より先例がないことを成し遂げた、その経験が本当に大きかったと思います。 憧れの環境で好スタートのはずが… 中学校入学時の写真。その後6年間着続けたブレザーが当時は大きすぎたのを見て成長が感じられる。 ハッピーエンドで締めくくられた小学校生活が終わり、最高の環境で中学校生活が始まりました。ハイレベルな勉強を質の高いリソースを使って行いながら、京都府の強豪サッカークラブに所属する(中学課程にはサッカー部がないので)という素晴らしい状況でしたが、理想通りには進みませんでした。 僕の進学した洛北中、高校は文科省によってSSH(スーパーサイエンスハイスクール)に認定されており、数学や科学に異常なパッションを持っている人々など、個性的な変人が集まったような環境でした。他人のことの様に述べていますが、自分自身もクラスメイトからは変人扱いされていました(笑)。ビッグマウスに加え、小学校三年生ごろから中学三年生までは左右アシンメトリーの独特なヘアスタイルをしていたため、担任の先生から「こいつやばいやつだ。」と思われたり、多くのクラスメイトから「最初見たときはこいつとは関わらんとこうと思ってたわ(笑)。」と言われたりする様子でした。 学校では、「何なんだこいつらは!?」というような人がたくさんいて新しい発見の連続。そこでは楽しい毎日を送っていて、成績もまずまずといったところでした。しかし、サッカーは完全に置いてけぼりになりました。学外のクラブチームでは序盤から人間関係がかなり劣悪になってしまい、「こいつ勉強できるだけで他に何ができんねん。」「お前には話しかけてないよ。」と言ったような言葉を浴びせられる時も多々ありました。そこでへこたれてしまった自分も今では反省ですが、そういったことが影響し、ハイレベルな環境でただでさえ機能していなかったプレーがどんどん消極的になりました。結果、サッカーに行くこと自体が嫌になり始め、精神的にはどん底の状態に陥りました。7限目や土曜授業がある中学校に通っていたため、サッカーをできる時間もチームメイトより少なく、僕は心身ともにチームから置いて行かれてしまいました。そうするうちに、学校でもモチベーションを失い始め、いわゆる、中だるみの状態に。「みんなめっちゃ楽しそうでいっぱい遊んでんのに何で俺だけこんなにしんどい思いしなあかんねん。」と、宿題も出さず、勉強もせず、得意科目であった英語と社会を除いては本当に散々な成績を取ってしまいました。 中学校で受ける模試では約60/80位。体育会系のはずなのに体育は評定2/5。常にトップクラスにいた英語ですら学年17/80位と、かなりショックを受けました。 しかしそんな中でも、こんなのは嫌だ、と心の中で思っている自分がいました。どこまで行っても負けず嫌いは負けず嫌い。自分にとって、「こいつはダメだな〜」と思われるのは当時何より嫌なことで、何かで常に人から目を置かれる存在になりたいというのが本音でした。 自分を変えたい、本当はこんなの嫌なんだ、という思いで中学二年の後半。その一歩目が生徒会選挙に出馬することでした。自分的には当選するまでの道を思い浮かべることができ、自信もありましたが、上記の様な状態かつビッグマウスな人間が選ばれるわけもなく、最終日の選挙演説で「洛北を世界一の学校にします」と言い放った後、見事落選しました(笑)。 もがき始めはやはりうまく行かないものですが、そういったことを皮切りに、勉強でもまずは全教科平均点越えを目標に勉強をはじめ、「いや平均取るのは当たり前やぞ。」と当時の担任の先生に指摘され目標を変更するなどしながら試行錯誤をゆっくりと続けました。「とにかく最低限のことはしっかりやろう」ということを第一目標になんとか這い上がろうと試みました。 そういった状態を続けながら中学二年生を終え、中学三年生へと進級、前期には学級委員を務めるなど一部成功もしながら緩やかながらも自分を立ち直していくことができました。最終的に中学三年生最後のテストでは、全教科平均点を超え、一時最下位の点数をとったこともある国語では、複数回連続でトップの点数を記録できるような状態になりました。 立ち直りはしましたが、特に突出した訳ではありませんでした。しかしその1年後、高校一年生になった僕は急成長を遂げます。 高1:学年トップのテスト複数が当たり前、模試で東大A判定、強化指定サッカー部と生徒会役員の兼任(同校史上初※) ※正式なデータがないため推測 激変の裏側にあった要因、偶然、出会い タイトルにもあるように、急成長の裏にあった理由を一言で表すなら、「ハーバード大学を目指す様になったから」です。 ここからはなぜ僕が突拍子もなくハーバードを目指し始めたのかという要因に焦点を絞って話していきたいと思います。 要因1:国際的なものへの憧れ ハワイ、ホノルルの公園にて。英語は喋れず、日本の旅行代理店を使っていたため学ぶ機会もなかったが、日本以外の世界に幼い頃から触れられていたのは大きかったと感じる。親に感謝。幼少期から家族でハワイ旅行に行く機会が多くあったことや、自分の夢見がちな気質、サッカー等のスポーツを通して漠然と憧れていた世界という舞台といった要因が相まって、昔から国際的なことへの関心や憧れがありました。 中学受験の面接の本でたまたま国連職員という言葉を知り、その職の内容を深掘りした結果、一時期国連職員が将来の夢になり、本格的に国際関連に興味を持ち始めました。 国際的な舞台への憧れによって英語を学習するためのモチベーションが人一倍強かったこともあり、たまたま小学校6年生から妹と同時に通い始めた地元の某英会話ホームティーチングを通して英語に触れ始めました。その時点ではあまり文法等は意識しておらず、というよりも英語の感覚を掴むということにフォーカスしていた様に思えます。ハワイの海辺で金髪の子供に話しかけられるも、早すぎて何を喋っているのかわからず、やっと「Where is the turtle?」と聞いているのが理解できた頃にはその子の関心は他のところへ行っていたこと。教材のリズムに合わせて英語を読む単元で、ネイティブが喋るのが早すぎて同じペースで発音できなかったという悔しさがあったこと等が相まって、ひたすらリスニングとスピーキングを一人で練習していた記憶があります。 結局その某教室での学習は、中学での英語の授業に半年もかからず追い越されてしまったため、中学入学後はほとんど意味がなくなりましたが、小学校6年生の1年間で英語の感覚的要素を身に着けられたことが、後の英語習得スピードを大幅に加速させたというのは間違いないと思います。 要因2: 夢見がちな気質が幸いした 幼少期から極端な未来志向だった僕は、中学になって大学のことばかりを先走ってえていて、自分がいくら中だるみしていてもその気質に変化はありませんでした。 中学1年時には、国際的なことをやるなら国際関係学だろうと思って「早稲田の国際教養学部いいな〜。」と思ったり、はたまた国際教養大学という秋田県にある全寮制の留学生の多い国際大学を見つけては、「ここに行きたい!」と思ったりということを繰り返しました。中学二年生になって、成績が悪いにも関わらず「国連行くには外務省行っといた方がいいから東大かな、てか東大京大って角眼鏡した人が研究に没頭する場所って訳では無いんか。」と感心しながら東大志望に変わったこともありました。そして中学3年時には、親から「東大行ったら自分で全部しなあかんし貧乏やから汚いとこ住まなあかんしその中で勉強とサッカーするんやったら大変やで。」という海外進学志望時も長期間続いたネチネチ攻撃(笑)を受けた結果、その時は「確かに」、と納得し「やっぱ京大法学部かな」、とまたもや志望変更。中学3年生にも関わらず「高校入ったらサッカーがもっと忙しいから。」と京大法学部のオープンキャンパスにひとり参加していました。 周りに海外進学する人はゼロでしたが、自分の夢見がちな気質が幸いして中高生の間に海外進学という選択肢まで早くに真剣に見つめることができるようになったのかなと今では感じています。 要因3:英語だけはできた 僕の通っていた中学校は卒業までに英検準二級は取得することを一応の目標としている学校で、英語教育の内容自体は他の中学と特に変わりはないものの、自主的に英検を受ける生徒が比較的多い学校でした。英語を使えるようになりたいというモチベーションと英検の級で誰にも負けたくないという負けず嫌いな気質が影響し、英語に関しては英検の勉強を独学で行うことのみに徹していました。その結果、中学1年生で4, 3, 準2級を取得、中学2年生で2級を取得、中学3年生で「中学のうちに準1級取ってたらこれからセンター満点になるかもしれんし、てか、めっちゃかっこいいやん。」という単純な理由で英検準1級をなんとか取得しました。そのため何事にもモチベーションがなくなったときにも学校英語は英検で習った範囲の復習や補足的なものにすぎなかったので常に良い成績を取っていました。 要因4:偶然の出会い、発言 今から2つの偶然を上げますが、順序は曖昧なのでご了承ください。 中学校の朝休みに「洛北タイム」と名付けられた朝読書の時間があったのですが、僕は自分で本を持ってきて自主的に読み始めるほど優秀な生徒ではなく(笑)、いつも先生が見回りに来そうになってやっと学級文庫の本を漁りに行くグループにいました。そこでたまたま本棚にあった「君は、こんなワクワクする世界を見ずに死ねるか!?」という元閣僚の田村耕太郎さんが執筆された本を読みました。そこでハーバード大学やイェール大学等の圧倒的なリソースと財力を持つ大学が年収に応じて学費を免除するなどして世界中から超エリート達をかき集めているという現実、そこに在学する生徒達の学習に対する圧倒的なパッション、アブダビの石油王がニューヨーク大学アブダビ校を誘致し全世界から優秀な学生をその圧倒的な財力で誘致している事実などを初めて知り、文字通りワクワクさせられました。 そしてその本を読む前であったか後であったかは定かでは無いのですが、中学3年生のある日の三者面談で、進路の話になったときに母親が、「この子アメリカに行きたいだけなんですよ〜」という冗談まがいの一言を行うと、先生が「じゃあアメリカの大学行ったらいいんじゃないですか?」と返答。「そんなんで俺は国際に興味あるって行ってるんちゃうわ。」と心の中で若干親に腹を立てながら「いやお金ないんで無理です。」と僕は返答しました。 しかし、担任の先生から返ってきた言葉は素っ気なく、かつ意外な返答で「いや奨学金とか色々あるのでとりあえず調べて見たらどうですか?」とおっしゃってくれました。 先生にとってはたまたま口から出た言葉に過ぎなかったようですが、前後で上記の様な本に出会ったこともあり、僕はその言葉にも後押しされアメリカの大学についてより深く調べていく様になりました。 その中で、ハーバードに海外経験なしで進学された日本人学生のお話や、多様性の中で分野に際限されずに自由に学べる環境にどんどん引き込まれていき、アメリカの大学に漠然とした憧れを抱くようになりました。 しかし、この段階では本気で目指そうとは一切思っておらず、志望するまでのシフトにはもう一つの一番大きな出来事がありました。 要因5: 一番大きな偶然 ハーバード大学にて。当時の日付が記されている個人的にお気に入りの写真。僕がハーバードを目指す決定打となったのが、グローバル人材育成プログラムという海外研修です。学校の中学三年生から高校三年生を対象に、約50名がアメリカのハーバードやMIT、スタンフォード等の世界のトップ大学を見学しながら、グローバル社会で活躍する力を養うというプログラムが偶然開始されたのです。 もちろん国際関係に関心のあった自分は、参加を決意し、中学三年終了後の春に5日間程度渡米しました。 プログラム自体は学校が海外進学者を増やす意図で設けたものではなかったので、僕自身も当初はアメリカへの憧れとグローバルな知見を得る希望を持って応募しましたが、渡米が近づくにつれて上記のような要因でアメリカの大学への関心が高まっていき、最終的には「アメリカの大学を実際に見る」という裏テーマを持って参加しました。 渡米後、ハーバード大学のあるボストン、ケンブリッジにつくや否や僕のアメリカ大学進学への憧れは本気へと変わりました。 ハーバードの中心部、ハーバードスクエア付近の写真。日本では想像できない規模に圧倒された。 日本とはまるで違う規模、大学自体が一つの街の様に活気付き、生徒はそれぞれが自分のやりたいことに目を輝かせながら語り、追い求めている。眼に映るもの全てに僕は心を奪われました。その感動は、今も忘れることはありません。 しかし、プログラムの中で得られた一番大きなものは、「常識を疑う」、「先例がなければ作れ」、というマインドセットでした。 東大からハーバードへ渡った18歳の「本音」 | ハーバード、その学びは一流なのか居心地のいい日本を離れ、厳しい世界に挑戦する——。そんな決断をした18歳の若きサムライがいる。ハーバード大学1年生の高島崚toyokeizai.net ハーバード滞在中に、当時ハーバード大学一年生であった高島崚輔さんにお会いし、渡米前から知っていた彼の記事を読み直したりする中で、自分がいかに狭い世界で生きていて、無意識的に限界を作っていたことを痛感させられました。 例えば、僕にとって文武両道とは、学校の勉強とスポーツ。これで十分、そして無意識的に限界だと思い込んでいました。ただそれは実は世界では常識ではなくて、高島さんをはじめとするハーバード大生、そして多くの日本の高校生にとっても「非」常識であるということを学びました。高島さんのケースの文武両道は、高校時代に成績ではトップを取り、模擬国連では日本代表として世界大会で優秀賞を取り、生徒会長をやり、そしてラグビーもやる。それが可能であって、やりたければやればいいんだと知ることができました。 「僕の見ているちっぽけな世界の常識なんて常識じゃ無いし、『常識がないこと』が常識なんだ。だから自分の周りに先例がないからって不可能な訳じゃ無い。先例がなければ作ればいいだけじゃん。」 「絶対にハーバードに行く」 アメリカから帰国した後、凄まじいモチベーションと決意を持った高校入学前の自分がそこには存在していました。 そしてただただ夢を抱くだけではなく、過去に先例を作る経験をしていた自分には、実現までの明確な戦略を描くことができていたのです。 渡米後提出したレポート。当時の自分からすると今の自分は想像できないだろなあと懐かしさや感動を覚える。 後編へ続く。

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地方公立の純ジャパが独学で世界最難関ミネルバ大学へ海外大学進学する話: 序章

“高校時代は、常識を疑いながら走り続けた3年間だ。” “それは中学卒業後の春、ボストンを訪れた。そこでの光景は僕の目に強く焼き付いた。街全体が活気づき、人々は目を輝かせ情熱に満ち溢れている。そんな学校、ハーバード大学に僕は惹き込まれた。京都府立の中高一貫校に入学するも、学年下位へと定着してしまっていた自分。海外在住経験もない日本人。夢のまた夢であることは火を見るより明らかだった。そんな状況でも僕は突き動かされた。” “このストーリーは、無謀とも思われる憧れを抱いた一人の日本人の健闘話である。先例がなければ創ればいい。今、前代未聞の物語が幕を開ける。” こんにちは。梅澤 凌我(うめざわ りょうが)と申します。 生まれてから18年間、ずっと京都で過ごしてきた。親も全く英語を喋れない一般家庭の純日本人ですが、ご縁があり2019年の秋からサンフランシスコに拠点をおくミネルバ大学(Minerva Schools at KGI)に進学することになりました。 “米国一の名門、ハーバード大学よりも難関で、合格率はわずか1.9%。しかし授業料は5分の1。キャンパスはなく、授業は全てオンライン。ただ学生たちは寮で共同生活し、4年間、世界7都市を渡り歩いて学ぶ。” 週刊東洋経済 2016年12月24日号 79Pというように、『世界最難関』、や『高等教育の最先端』として近年日本でも注目を集めているミネルバですが、なぜこのような大学に、海外居住経験のない、いわゆる『純ジャパ』公立日本人高校生が塾なしで合格し、進学するまでに至ったのか。そこには様々な出会いや経験がありました。 このブログでは、8月ごろまでにかけて自身の生い立ちからミネルバ大学進学決定までの経緯や、その中で感じたことをパートに分けて記していきたいと思います。 part1となる次回は、自身の生い立ちから、自分にとって最大の分岐点となった中学卒業後の春のハーバード大学との出会いまでを取り上げます。 それでは次回、  『純ジャパ公立高校生が塾なしでハーバード目指した話:前編』 でお会いしましょう。

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