ハーバード大学を訪れたプログラムで提出した感想文。あまり大っぴらにはしていないが絶対にハーバードに行ってやると言う熱意を胸に書いていた。
こんにちは。梅澤 凌我です。今回は、純ジャパ日本人で公立高校出身の僕が、なぜ世界最難関とも噂されるミネルバ大学に塾なしで進学するまでに至ったかを、幼少期から、大きな変換期―ハーバードを目指すようになったきっかけーまで話していきたいと思います。
幼少期〜
幼稚園在学時もしくは小学校低学年時の写真。
当時は昆虫が大好きで将来親友とアマゾンに虫取りに行くのが夢だった模様。
2001年に生まれ、そこから18年間京都で育ってきました。 父は地方公務員で母は元幼稚園教諭(最近になって復職)。どちらも京都生まれ京都育ちで、周りにインターナショナルなバックグラウンドは特にありませんでした。
幼稚園入園の記憶は一切ありませんが、電車が大好きで、京都駅に新幹線をよく見に行っていたそうです。当時は言えない電車の名前はなかったそうです。
幼少期には泣き虫と呼ばれることが多かったです。特にこれといった取り柄はなく、何においても負けては悔しくて泣いていたのを覚えています。その点では昔から負けず嫌いだったのかなと思いますが、当時の幼稚園の先生からの印象は、「ずっと鼻水を垂らして自由気ままにぼーっとしている子」といったようなもので、実際は、悔しいから、負けたくないから、といって何かに本気になれたことはあまりありませんでした。それなのに、昔から夢見がちな性格で、当時平泳ぎで世界を圧倒していた北島康介選手を見て「水泳選手になりたい!!」と言ったり、レギュラーというお笑い芸人のあるある探検隊を見ていきなり「芸人になりたい!!」と言ったり、昔から様々な大きな目標(笑)を抱くのが好きな人間だったのかなと思いました。
そしてなぜか、自分が本気で「やりたい!!」と思ったことに対して、僕は才能が全然なかったことが多く、基本的にゼロからのスタートでした。幼稚園年中ごろから初めた水泳も、初めは水に顔をつけることすらできない状態からのスタートでした。後述するサッカーについても、チームで一番と言っていいほど下手でした。
そんな自分にとてもプラスに働いたと感じているのは、親が自分のやりたいことを全部応援してくれる人であったと言うことです。自分の理想を押し付けるのではなく、子供がやりたいことをやればいい。ただやるからには真剣にやらせるという方針でした。 こういう環境で育ったからこそより広い世界に目を向けられるようになったいうのは間違いないと思います。
全ての原点、そして人生初めての挫折
小学校2年生頃の写真。サッカーを初めて二球目のボールをゲットした夜と推測される。
今までの人生で、サッカーが様々な面で自分を形作る原点になったと感じています。幼稚園で休み時間に流行っていたサッカーに混じったことがきっかけで、小学校入学後から地元の少年団で本格的に習い始めました。京都府では有名なチームの一つで、6年生の先輩が京都府の決勝大会でプレーするのを見て、やはり夢見がちな自分は、自分もここでやりたい!!という願望を抱きました。しかし、蓋を開けてみれば、自分は練習中に友達と追いかけっこをしたり砂を掛け合ったりする不真面目極まりないメンバーであった上、チームで一番足が遅く、技術もないという有様でした。自分は大きな願望を持っているにも関わらずそれとは程遠い自分に何か焦燥や劣等感のようなものは全く感じず、ただただ幻想を抱いているだけでした。
そんな自分を変える出来事が小学校二年生の夏頃に起こりました。チームで初めての選抜試合が行われることになり、夜の練習後にコーチがチーム全員を集め、メンバーを発表した時のことでした。
「梅澤、〇〇、〇〇。」僕の名前に続いて、二人の名前が呼ばれ、僕はメンバーに選ばれたのだと勘違いしました。しかし直後、コーチから飛んできた言葉は僕に絶望を与えました。「今呼ばれたやつ『以外』が(試合に)行く。」7歳の自分が感じた人生で一番の悔しさでした。その時初めて、状況を変えるために何かしたいと言う強い思いが湧き上がって来たのです。
そこから毎日、母の提案で父と近所の公園で朝練をするようになりました。毎朝6時に起き、近所の公園までランニング、そこから1時間のパストレーニング。この毎日のタスクが、自分にとってどれほど大きいものとなるか、まだその頃は知る由もありませんでした。
朝早くに起きるのが苦痛なあまりに、母親の携帯のアラームから鳴るウクレレの音が大嫌いになりました。たまたま祝日に自転車で公園に向かった日には、寝ぼけていたのか自転車ごとドブに墜落したこともありました笑。
走れる距離で開かれているサッカースクールや催し物には全て親が自転車で行くのを僕がランニングで追いかける形で行っていました。夜の街に置いてけぼりにされるのが怖くて時には半泣きになりながら走ったのを覚えています。
しかし、トレーニングの甲斐もあってか、3、4年生になって特にパスセンスが上がり公式戦やカップ戦にも控えながらも少しずつ呼ばれるようになりました。
練習の成果が特に開花したのは5年生になった時でした。当時しばしばメンバーに選ばれると言っても控えだった僕ですが、とあるコーチの目に止まり、いきなりAチームに抜擢されました。その時のコーチのコメントは、今でも鮮明に覚えています。「梅(当時のニックネーム)がAチームで意外と思ってる人は結構いるかもしれんけど、こいつ、めちゃくちゃ走って頑張りおるで。」試合での体力を生かした泥臭く粘り強いプレーが評価され、トップチームに入ることができたのです。これは自分にとって大きな自信となりました。そこから自分のそういったプレーに自信を持ちサッカーに臨んで行った結果、Aチームでの公式戦初日でゴールを決めるなど、どんどん自信がついて行きました。
その後、全日本選手権の京都府予選ではBチームに降格するなど、悔しい出来事も沢山ありましたが、最終的に、6年生最後にして京都府最大の公式戦であるサンガカップで優勝することができ、これが非常に大きな自信となりました。
京都府の小学校世代最大の公式戦、サンガカップ優勝後の一枚
そして同時期に、サッカーをキッカケとして、サッカー以外の面でも成功を納めことができました。小学校中学年の頃に見ていた高校サッカーで京都の名門校に憧れ、そこでは文武両道が求められると知って真剣に勉強に取り組むようになりました。そう言った経緯で小学校3年の夏頃から某通信教育教材を中心に熱心に勉強をはじめた結果、小学校高学年の頃に成績が学年トップクラスにまで急上昇しました。そして小学校の先生から中学受験と言う選択肢を教えてもらい、京都の公立中高一貫校である京都府立洛北高等学校附属中学校の受験を決意しました。そこでは高いレベルで勉強ができるだけでなく、高校課程では京都府の強豪洛北サッカー部でもプレーできるという魅力がありました。
サッカーや水泳に打ち込んでいたため、塾に行く時間や予算があるわけもなく、その当時も塾なしで受験に挑みました。市販の問題集に親と悪戦苦闘しながら、1年間勉強に励みましたが受ける模試は結局C、D判定。算数は本番までで1回も5割以上得点できることはなく、受験後もまあ受からないだろうなあという心持ちで過ごしていました。
合格発表当日、中学校の校門を潜り大きなテントの下に設置されていた番号表へと向かいました。少しずつ歩み寄る中で、「あれ、8番(自分の受験番号)あるくない?いやそんなわけないか、いやあるくね?いやないか。」という葛藤が当時視力が下降気味だった自分の中で巻き起こりました。間近まで来たわけですが、やはり自分の受験番号らしき「何か」が確実にある。二度見、三度見した後、ようやく喜びが自分の体を駆け巡りました。
当時の合格者番号表は今でも思い出として写真に残しています
最後までサッカーを続け京都府優勝、そして塾なしで中学受験を成功させる。自分にとっても周りにとっても類を見ないことでした。周りでは、小学校低学年からその学校に行くために塾に行き始め、途中で自分の所属していたサッカー部をやめてまで勉強する人がいる中で本当に自分が受かるなんて誰も想像していませんでした。
この経験は、結局自分が夢のまた夢の状況から「ハーバードに行きたい!」と大口を叩く自身の根拠になっていたのかなと思い返します。中学二年生の頃にサッカーもうまくいかず、成績も下から数えた方が早かったような純日本人がビッグマウスでいられたのは、努力の大切さ、方法、そして何より先例がないことを成し遂げた、その経験が本当に大きかったと思います。
憧れの環境で好スタートのはずが…
中学校入学時の写真。その後6年間着続けたブレザーが当時は大きすぎたのを見て成長が感じられる。
ハッピーエンドで締めくくられた小学校生活が終わり、最高の環境で中学校生活が始まりました。ハイレベルな勉強を質の高いリソースを使って行いながら、京都府の強豪サッカークラブに所属する(中学課程にはサッカー部がないので)という素晴らしい状況でしたが、理想通りには進みませんでした。
僕の進学した洛北中、高校は文科省によってSSH(スーパーサイエンスハイスクール)に認定されており、数学や科学に異常なパッションを持っている人々など、個性的な変人が集まったような環境でした。他人のことの様に述べていますが、自分自身もクラスメイトからは変人扱いされていました(笑)。ビッグマウスに加え、小学校三年生ごろから中学三年生までは左右アシンメトリーの独特なヘアスタイルをしていたため、担任の先生から「こいつやばいやつだ。」と思われたり、多くのクラスメイトから「最初見たときはこいつとは関わらんとこうと思ってたわ(笑)。」と言われたりする様子でした。
学校では、「何なんだこいつらは!?」というような人がたくさんいて新しい発見の連続。そこでは楽しい毎日を送っていて、成績もまずまずといったところでした。しかし、サッカーは完全に置いてけぼりになりました。学外のクラブチームでは序盤から人間関係がかなり劣悪になってしまい、「こいつ勉強できるだけで他に何ができんねん。」「お前には話しかけてないよ。」と言ったような言葉を浴びせられる時も多々ありました。そこでへこたれてしまった自分も今では反省ですが、そういったことが影響し、ハイレベルな環境でただでさえ機能していなかったプレーがどんどん消極的になりました。結果、サッカーに行くこと自体が嫌になり始め、精神的にはどん底の状態に陥りました。7限目や土曜授業がある中学校に通っていたため、サッカーをできる時間もチームメイトより少なく、僕は心身ともにチームから置いて行かれてしまいました。そうするうちに、学校でもモチベーションを失い始め、いわゆる、中だるみの状態に。「みんなめっちゃ楽しそうでいっぱい遊んでんのに何で俺だけこんなにしんどい思いしなあかんねん。」と、宿題も出さず、勉強もせず、得意科目であった英語と社会を除いては本当に散々な成績を取ってしまいました。
中学校で受ける模試では約60/80位。体育会系のはずなのに体育は評定2/5。常にトップクラスにいた英語ですら学年17/80位と、かなりショックを受けました。
しかしそんな中でも、こんなのは嫌だ、と心の中で思っている自分がいました。どこまで行っても負けず嫌いは負けず嫌い。自分にとって、「こいつはダメだな〜」と思われるのは当時何より嫌なことで、何かで常に人から目を置かれる存在になりたいというのが本音でした。
自分を変えたい、本当はこんなの嫌なんだ、という思いで中学二年の後半。その一歩目が生徒会選挙に出馬することでした。自分的には当選するまでの道を思い浮かべることができ、自信もありましたが、上記の様な状態かつビッグマウスな人間が選ばれるわけもなく、最終日の選挙演説で「洛北を世界一の学校にします」と言い放った後、見事落選しました(笑)。
もがき始めはやはりうまく行かないものですが、そういったことを皮切りに、勉強でもまずは全教科平均点越えを目標に勉強をはじめ、「いや平均取るのは当たり前やぞ。」と当時の担任の先生に指摘され目標を変更するなどしながら試行錯誤をゆっくりと続けました。「とにかく最低限のことはしっかりやろう」ということを第一目標になんとか這い上がろうと試みました。
そういった状態を続けながら中学二年生を終え、中学三年生へと進級、前期には学級委員を務めるなど一部成功もしながら緩やかながらも自分を立ち直していくことができました。最終的に中学三年生最後のテストでは、全教科平均点を超え、一時最下位の点数をとったこともある国語では、複数回連続でトップの点数を記録できるような状態になりました。
立ち直りはしましたが、特に突出した訳ではありませんでした。しかしその1年後、高校一年生になった僕は急成長を遂げます。
高1:学年トップのテスト複数が当たり前、模試で東大A判定、強化指定サッカー部と生徒会役員の兼任(同校史上初※)
※正式なデータがないため推測
激変の裏側にあった要因、偶然、出会い
タイトルにもあるように、急成長の裏にあった理由を一言で表すなら、「ハーバード大学を目指す様になったから」です。
ここからはなぜ僕が突拍子もなくハーバードを目指し始めたのかという要因に焦点を絞って話していきたいと思います。
要因1:国際的なものへの憧れ
ハワイ、ホノルルの公園にて。英語は喋れず、日本の旅行代理店を使っていたため学ぶ機会もなかったが、日本以外の世界に幼い頃から触れられていたのは大きかったと感じる。親に感謝。
幼少期から家族でハワイ旅行に行く機会が多くあったことや、自分の夢見がちな気質、サッカー等のスポーツを通して漠然と憧れていた世界という舞台といった要因が相まって、昔から国際的なことへの関心や憧れがありました。
中学受験の面接の本でたまたま国連職員という言葉を知り、その職の内容を深掘りした結果、一時期国連職員が将来の夢になり、本格的に国際関連に興味を持ち始めました。
国際的な舞台への憧れによって英語を学習するためのモチベーションが人一倍強かったこともあり、たまたま小学校6年生から妹と同時に通い始めた地元の某英会話ホームティーチングを通して英語に触れ始めました。その時点ではあまり文法等は意識しておらず、というよりも英語の感覚を掴むということにフォーカスしていた様に思えます。ハワイの海辺で金髪の子供に話しかけられるも、早すぎて何を喋っているのかわからず、やっと「Where is the turtle?」と聞いているのが理解できた頃にはその子の関心は他のところへ行っていたこと。教材のリズムに合わせて英語を読む単元で、ネイティブが喋るのが早すぎて同じペースで発音できなかったという悔しさがあったこと等が相まって、ひたすらリスニングとスピーキングを一人で練習していた記憶があります。
結局その某教室での学習は、中学での英語の授業に半年もかからず追い越されてしまったため、中学入学後はほとんど意味がなくなりましたが、小学校6年生の1年間で英語の感覚的要素を身に着けられたことが、後の英語習得スピードを大幅に加速させたというのは間違いないと思います。
要因2: 夢見がちな気質が幸いした
幼少期から極端な未来志向だった僕は、中学になって大学のことばかりを先走ってえていて、自分がいくら中だるみしていてもその気質に変化はありませんでした。
中学1年時には、国際的なことをやるなら国際関係学だろうと思って「早稲田の国際教養学部いいな〜。」と思ったり、はたまた国際教養大学という秋田県にある全寮制の留学生の多い国際大学を見つけては、「ここに行きたい!」と思ったりということを繰り返しました。中学二年生になって、成績が悪いにも関わらず「国連行くには外務省行っといた方がいいから東大かな、てか東大京大って角眼鏡した人が研究に没頭する場所って訳では無いんか。」と感心しながら東大志望に変わったこともありました。そして中学3年時には、親から「東大行ったら自分で全部しなあかんし貧乏やから汚いとこ住まなあかんしその中で勉強とサッカーするんやったら大変やで。」という海外進学志望時も長期間続いたネチネチ攻撃(笑)を受けた結果、その時は「確かに」、と納得し「やっぱ京大法学部かな」、とまたもや志望変更。中学3年生にも関わらず「高校入ったらサッカーがもっと忙しいから。」と京大法学部のオープンキャンパスにひとり参加していました。
周りに海外進学する人はゼロでしたが、自分の夢見がちな気質が幸いして中高生の間に海外進学という選択肢まで早くに真剣に見つめることができるようになったのかなと今では感じています。
要因3:英語だけはできた
僕の通っていた中学校は卒業までに英検準二級は取得することを一応の目標としている学校で、英語教育の内容自体は他の中学と特に変わりはないものの、自主的に英検を受ける生徒が比較的多い学校でした。英語を使えるようになりたいというモチベーションと英検の級で誰にも負けたくないという負けず嫌いな気質が影響し、英語に関しては英検の勉強を独学で行うことのみに徹していました。その結果、中学1年生で4, 3, 準2級を取得、中学2年生で2級を取得、中学3年生で「中学のうちに準1級取ってたらこれからセンター満点になるかもしれんし、てか、めっちゃかっこいいやん。」という単純な理由で英検準1級をなんとか取得しました。そのため何事にもモチベーションがなくなったときにも学校英語は英検で習った範囲の復習や補足的なものにすぎなかったので常に良い成績を取っていました。
要因4:偶然の出会い、発言
今から2つの偶然を上げますが、順序は曖昧なのでご了承ください。
中学校の朝休みに「洛北タイム」と名付けられた朝読書の時間があったのですが、僕は自分で本を持ってきて自主的に読み始めるほど優秀な生徒ではなく(笑)、いつも先生が見回りに来そうになってやっと学級文庫の本を漁りに行くグループにいました。そこでたまたま本棚にあった「君は、こんなワクワクする世界を見ずに死ねるか!?」という元閣僚の田村耕太郎さんが執筆された本を読みました。そこでハーバード大学やイェール大学等の圧倒的なリソースと財力を持つ大学が年収に応じて学費を免除するなどして世界中から超エリート達をかき集めているという現実、そこに在学する生徒達の学習に対する圧倒的なパッション、アブダビの石油王がニューヨーク大学アブダビ校を誘致し全世界から優秀な学生をその圧倒的な財力で誘致している事実などを初めて知り、文字通りワクワクさせられました。
そしてその本を読む前であったか後であったかは定かでは無いのですが、中学3年生のある日の三者面談で、進路の話になったときに母親が、「この子アメリカに行きたいだけなんですよ〜」という冗談まがいの一言を行うと、先生が「じゃあアメリカの大学行ったらいいんじゃないですか?」と返答。「そんなんで俺は国際に興味あるって行ってるんちゃうわ。」と心の中で若干親に腹を立てながら「いやお金ないんで無理です。」と僕は返答しました。
しかし、担任の先生から返ってきた言葉は素っ気なく、かつ意外な返答で「いや奨学金とか色々あるのでとりあえず調べて見たらどうですか?」とおっしゃってくれました。
先生にとってはたまたま口から出た言葉に過ぎなかったようですが、前後で上記の様な本に出会ったこともあり、僕はその言葉にも後押しされアメリカの大学についてより深く調べていく様になりました。
その中で、ハーバードに海外経験なしで進学された日本人学生のお話や、多様性の中で分野に際限されずに自由に学べる環境にどんどん引き込まれていき、アメリカの大学に漠然とした憧れを抱くようになりました。
しかし、この段階では本気で目指そうとは一切思っておらず、志望するまでのシフトにはもう一つの一番大きな出来事がありました。
要因5: 一番大きな偶然
ハーバード大学にて。当時の日付が記されている個人的にお気に入りの写真。
僕がハーバードを目指す決定打となったのが、グローバル人材育成プログラムという海外研修です。学校の中学三年生から高校三年生を対象に、約50名がアメリカのハーバードやMIT、スタンフォード等の世界のトップ大学を見学しながら、グローバル社会で活躍する力を養うというプログラムが偶然開始されたのです。
もちろん国際関係に関心のあった自分は、参加を決意し、中学三年終了後の春に5日間程度渡米しました。
プログラム自体は学校が海外進学者を増やす意図で設けたものではなかったので、僕自身も当初はアメリカへの憧れとグローバルな知見を得る希望を持って応募しましたが、渡米が近づくにつれて上記のような要因でアメリカの大学への関心が高まっていき、最終的には「アメリカの大学を実際に見る」という裏テーマを持って参加しました。
渡米後、ハーバード大学のあるボストン、ケンブリッジにつくや否や僕のアメリカ大学進学への憧れは本気へと変わりました。
ハーバードの中心部、ハーバードスクエア付近の写真。日本では想像できない規模に圧倒された。
日本とはまるで違う規模、大学自体が一つの街の様に活気付き、生徒はそれぞれが自分のやりたいことに目を輝かせながら語り、追い求めている。眼に映るもの全てに僕は心を奪われました。その感動は、今も忘れることはありません。
しかし、プログラムの中で得られた一番大きなものは、「常識を疑う」、「先例がなければ作れ」、というマインドセットでした。
東大からハーバードへ渡った18歳の「本音」 | ハーバード、その学びは一流なのか居心地のいい日本を離れ、厳しい世界に挑戦する——。そんな決断をした18歳の若きサムライがいる。ハーバード大学1年生の高島崚toyokeizai.net
ハーバード滞在中に、当時ハーバード大学一年生であった高島崚輔さんにお会いし、渡米前から知っていた彼の記事を読み直したりする中で、自分がいかに狭い世界で生きていて、無意識的に限界を作っていたことを痛感させられました。
例えば、僕にとって文武両道とは、学校の勉強とスポーツ。これで十分、そして無意識的に限界だと思い込んでいました。ただそれは実は世界では常識ではなくて、高島さんをはじめとするハーバード大生、そして多くの日本の高校生にとっても「非」常識であるということを学びました。高島さんのケースの文武両道は、高校時代に成績ではトップを取り、模擬国連では日本代表として世界大会で優秀賞を取り、生徒会長をやり、そしてラグビーもやる。それが可能であって、やりたければやればいいんだと知ることができました。
「僕の見ているちっぽけな世界の常識なんて常識じゃ無いし、『常識がないこと』が常識なんだ。だから自分の周りに先例がないからって不可能な訳じゃ無い。先例がなければ作ればいいだけじゃん。」
「絶対にハーバードに行く」
アメリカから帰国した後、凄まじいモチベーションと決意を持った高校入学前の自分がそこには存在していました。
そしてただただ夢を抱くだけではなく、過去に先例を作る経験をしていた自分には、実現までの明確な戦略を描くことができていたのです。
渡米後提出したレポート。当時の自分からすると今の自分は想像できないだろなあと懐かしさや感動を覚える。
後編へ続く。